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   <title>秦琴</title>
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   <updated>2009-03-20T13:11:55Z</updated>
   <subtitle>秦琴について</subtitle>
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   <title>絹絃の話</title>
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   <published>2009-01-25T06:57:26Z</published>
   <updated>2009-03-20T13:11:55Z</updated>
   
   <summary>ページをリニューアルいたしました。こちらからご覧ください。 その三 琵琶の皮弦に...</summary>
   <author>
      <name>深草アキ</name>
      <uri>morihito</uri>
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      <![CDATA[<p>ページをリニューアルいたしました。<a href="http://akifukakusa.com/shinkin_new/silkstrings.html">こちらからご覧ください。</a></p>
<!--
<h3>その三</h3>
<p>
<span style="font-size: 110%; font-family: MS Gothic">琵琶の皮弦についての諸説</span>
</p>
<p>
前回書いた様に、唐・段成式(？&mdash;863)の『酉陽雜俎(ゆうようざっそ)』巻六&ldquo;樂&rdquo;の条には段善本が皮絃の琵琶を弾いていたことが記されているが、この琵琶の皮絃については後世の様々な書物に記されているので少し書いてみたい。一応話しの内容を年代順にしてみた。
</p>
<p>
先ず最初には『 五代史補』(宋・陶岳）に記されている馮吉の琵琶を取り上げてみたい。この『 五代史補』の巻五には、五代の後唐と後周の宰相であった瀛王道(馮道、882-954）の子馮吉が皮絃の琵琶を巧みに弾いていたことが記されている。
</p>
<p>
<span style="color: #999999">&nbsp;<span style="font-size: 130%">＊</span></span>『五代史補』巻五　馮吉好琵琶の条
</p>
<p>
<span style="font-size: 110%; font-family: MS Gothic">馮吉　瀛王道之子　能彈琵琶　以皮為弦　世宗嘗令彈於御前　深欣善之　因號其琵琶曰「繞殿雷」也。・・・・・</span>
</p>
<p>
「 馮吉は瀛王道の子である。皮絃の琵琶を巧みに弾いていた。世宗は嘗て御前で演奏することを命ぜられたが、大変喜ばれその琵琶を「繞殿雷」と名付けられた。・・・」
</p>
<p>
&nbsp;
この様に記されている。雷の様に音が殿中をめぐったので「繞殿雷（繞・めぐる）」と云うのであろうが、この皮絃の音はよく雷に喩えられている。前回（その二）の唐・元稹(げんしん・779&mdash;831）の『元氏長慶集』巻二十六&ldquo;琵琶歌&rdquo;でも&ldquo;雷吼のようだ&rdquo;と喩えられているし、段安節の『樂府雑録』琵琶の条には、琵琶の達人として知られた康崑崙が、段善本(だんぜんぽん)の女性の弟子が弾く琵琶に驚くくだりが記されている。その音は【下撥聲如雷其妙入神「撥を振り下ろす音は雷のようでその妙は神懸かりのようである」】だったそうである。前記の様に段善本は皮絃の琵琶を弾いていたので、その弟子も又皮絃を用いていたのであろう。
</p>
<p>
ちなみにこの馮吉なる子は怠け者らしく、親の馮道が、出世は太常少卿どまりと嘆いた。馮道の宰相から見れば太常少卿なぞはかなり下位の官であろうが、当時の庶民から見れば贅沢な悩みでしょうね。何時の時代も親の悩みは一緒ですね。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
次に宋代では欧陽脩(1007~1072 )の &ldquo;杜彬琵琶皮作弦&rdquo;が知られている。
</p>
<p>
&nbsp;<span style="font-size: 130%">＊</span>宋・欧陽脩の『欧陽文忠公集』&ldquo;居士集&rdquo;巻七の「贈沈博士歌」に次の一節がある。
</p>
<p>
<span style="font-size: 110%; font-family: MS Gothic">・・・・・我昔被謫居滁山　名雖為翁實少年　坐中醉客誰最賢　杜彬琵琶皮作弦　自從彬死世莫傳　玉連鎖聲入黃泉・・・・・・</span>
</p>
<p>
「・・・・私は昔滁州に左遷されていた。翁と言ってもまだ年いかぬ頃である。坐中の醉客の中で誰が最も優れていたのであろうか。杜彬の琵琶は皮で絃を作ってあった。彼が死んでからは莫として世に伝わらず玉連鎖聲の音は黃泉の国に行ってしまった。・・・」
</p>
<p>
&nbsp;
欧陽脩の滁州左遷時代、彼の副官であった杜彬は皮絃の琵琶を上手に弾いていた。その杜彬の死を悼んでのこの一節は、&quot;沈夫子胡為醉翁吟・・・&rdquo;で始まる「贈沈博士歌」（一作　醉翁吟）中に見られ、後の世に &ldquo;杜彬琵琶皮作弦&rdquo;とし様々な人に取り上げられ、そしてまた様々に記されている。その幾つかを取り上げてみよう。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
&nbsp;<span style="font-size: 130%">＊</span>陳師道(1053~1101)字・履常、無己、号・後山居士の『後山居士詩話』には次の様に記されている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 110%; font-family: MS Gothic">歐陽公謫永陽　聞其倅杜彬善琵琶　酒間取之　杜正色盛氣而謝不能　公亦不復強也　後杜置酒數行　遽起還內　微聞絲聲　且作且止而漸近　久之　抱器而出　手不絕彈　盡暮而罷　公喜甚過所望也　故公詩云〔座中醉客誰最賢　杜彬琵琶皮作絃　自從彬死世莫傳　〕皮絃世未有也</span>
</p>
<p>
「欧陽脩が永陽(滁州の別名）に左遷されていた頃、副官の杜彬が琵琶が上手なのを耳にし、酒の席で弾かせようとしたが、杜彬は真顔で出来ませんと謝った。公もまた無理強いはしなかった。杜彬がいくらか酒を飲んだ後席を外すと宴内に微かに絲の音が聞こえて来た。鳴っては止み、止んでは鳴りと段々近づいて来た。しばらくすると杜彬が琵琶を抱え出て来、止めることなく日が暮れる迄弾き続けた。公は望んだ以上のことに大変喜んだのでこの詩がある。（坐中の醉客の中で誰が最も優れていたのであろうか。杜彬の琵琶は皮で絃を作ってあった。杜彬が死んでからは莫として世に伝わらなかった。）皮の絃はいまの世の中に未だ見られない。」
</p>
<p>
&nbsp;この様だが、欧陽脩と杜彬のやり取りをまるで見て来たかの様に記している。欧陽脩の滁州時代は慶暦5年〜7年（1045~1047)なので陳師道が生まれる前の話しだが、陳師道が19才の時に欧陽脩が死んでいる。陳師道は滁州に近い徐州の生まれであるし、共に当時の王安石の新法に反対であった。それ故に欧陽脩のことが色々耳に入り、実際にこの様なことがあったので親しみを込めて書いたのであろう。当時の北宋の都、東京(開封）に比べれば僻地であった永陽はあまり娯楽的な音楽も無かった様なので、この杜彬の演出は多いに公を喜ばせたことであろう。
</p>
<p>
又、唐の開元（713~741）の段善本、五代（907~960)の馮吉、北宋(11世紀中頃）の杜彬と、弾き継がれて来た皮絃の琵琶は、陳師道在世の11世紀後半頃には已に無くなってしまったようである。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
陳師道より20~30年程後の葉夢得(しょうぼうとく、1077~1148)もこの話しを取り上げている。
</p>
<p>
&nbsp;<span style="font-size: 130%">＊</span>葉夢得（字・少蘊、号・石林）の『 石林避暑録(避暑録話)』巻二に次の様に記されている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 110%; font-family: MS Gothic">歐文忠公在滁州　通判杜彬善彈琵琶．公每飲酒．必使彬為之．往往酒行遂無筭．故其詩云．坐中醉客誰最賢．杜彬琵琶皮作絃．此詩既出．彬頗病之．祈(沂)公改去姓名．而人已傳．卒不得諱・・・・・琵琶以下撥重為難　猶琴之用指深　故本色有轢弦護索之稱　文忠嘗問琵琶之妙於彬．亦以此對．乃取使教他樂工試為之．下撥絃皆斷　因笑曰　如公之言．無乃皮為之耶？故有皮作絃之句　而好事者遂傳彬眞以皮為絃　其實非也　唐人記(説)賀懷智以鵾雞筋作絃　人因疑之　筋比皮似有可作絃之理　然亦不應得許長　且所貴者聲爾　安以絃為奇耶</span>（明、項德棻校、明　項氏宛委堂刊より）
</p>
<p>
&nbsp;
「欧陽脩が滁州に赴任していた時、通判である副官の杜彬は琵琶が上手であった。公(欧陽脩）は酒宴の度に必ず 彼を連れて行き琵琶を弾かした。度々になり数えきれない程になった。それ故詩にこの様にある（坐中醉客誰最賢　杜彬琵琶皮作絃）。この詩が出たとき、杜彬は大変気にして名前の削除を公に願い出た。しかしすでに世に伝わり、結局タブーにはならなかったのである。（？）・・・・・琵琶は撥を幾度も振り下ろすので難しい。琴も猶指を用いて難しいが、それ故本来の音色があり「轢弦護索」とも言われている。欧陽脩はかつて杜彬に琵琶の妙を問うた。杜彬はただ使者に教えただけだったが(？)、樂工達がこれを試し撥を振り下ろしたところ皆絃が切れてしまった。それで公は笑ってこのように云った。皮絃は無いのか！だから&ldquo;皮作絃&rdquo;の句がある。しかし風流を好む人達は杜彬が本当に皮で絃を作っていたと世の中に伝えたが、事実はそうではない。唐の人は賀懷智は鵾雞の筋で絃を作っていたと記している。因みに人はこれを疑った。筋は皮に比べ絃を作るべき理屈があるようだが、優れていると賞賛してはいけない。そして又貴い音樂は絃を珍しいもので作ると言うことではないであろう。」
</p>
<p>
葉夢得は 陳師道より20~30年程後の人なのだが、ここでは皮絃のことをあまり評価していないし、事実とも思っていなかったようである。ただ前半では杜彬が気に病んだことが記されているが、欧陽脩の「贈沈博士歌」には&ldquo;自從彬死世莫傳，玉連鎖聲入黃泉&rdquo;とあるので明らかに杜彬が死んでから出来た詩である。死んでいる杜彬が気に病むはずも無いので 、この矛盾はどういう訳であろう。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
このことについて南宋・呉會の『能改齋漫録 』&quot;杜彬琵琶皮作弦&rdquo;の条にはこの様にも記されている。『能改齋漫録 』は紹興24年〜27年(1154年~1157年）に編纂されている。以下
</p>
<p>
&nbsp;<span style="font-size: 130%">＊</span>『能改齋漫録』(南宋・呉會、字虎臣、)の巻五「杜彬琵琶皮作弦」の条
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 110%">陳無己詩話　歐陽公謫滁州　聞其倅杜彬善琵琶　酒間請之　正色盛氣而謝不能　公亦不復強也　後杜彬置酒數行　遽起還內　漸聞絲聲　且作且止而漸近　久之　抱器而出　手不絕彈　盡暮而罷　公喜甚過所望也　故公詩云：〔座中醉客誰最賢　杜彬琵琶皮作絃。自從彬死世莫傳〕皮絃世未有也。以上此陳説　葉少蘊避暑録云　文忠在滁州　通判杜彬善彈琵琶　故其詩云　(坐中醉客誰最賢　杜彬琵琶皮作絃)此詩既出　彬頗病之　祈公改去姓名　而人已傳　卒不得諱　又云琵琶以下撥重為難　猶琴之用指深　故本色有轢絃護索之稱　文忠嘗問彬琵琶之妙．亦以此對　乃取使教他樂工試為之　下撥絃皆斷　因笑曰　如公之絃(言）無乃皮為之耶　故有皮作絃之句　而好事者遂傳彬眞以皮為絃　其實非也　唐人説賀懷智以鵾雞筋作絃　人因疑之　筋比皮雖有可作絃之理　然亦不應得許長　且所貴者聲爾．耳安在以絃為奇乎　梅聖喩醉翁吟亦云　當時醉翁滁州所樂者惟有杜彬弾琵琶　使誠有之　聖喩亦當以異見于詩也　以上皆葉説　予按陶岳五代史補云　馮道之子　能彈琵琶　以皮為弦　世宗令彈　深善之　因號琵琶為繞殿雷　乃知以皮為弦古有其法　而杜彬得之　葉為妄辨　無可疑者　且文忠公詩云　我昔被謫居滁州　雖名為翁實少年　坐中醉客誰最賢　杜彬琵琶皮作弦　自從彬死世莫傳　玉連鎖聲入黃泉　則公作此詩時杜彬已死後　葉安得有祈公改去姓名之説　哉予以意料之當是　葉只據兩句而遂為此説　又不考五代史補偶忘馮氏舊事耳　不然何[]誤之甚耶</span></span>
</p>
<p>
「 陳師道の詩話にこのようにある。欧陽脩が永陽(滁州の別名）に左遷されていた頃、副官の杜彬が琵琶が上手なのを耳にし、酒の席で弾かせようとしたが、杜彬は真顔で出来ませんと謝った。公もまた無理強いはしなかった。杜彬がいくらか酒を飲んだ後、席を外すと宴内に絲の音が聞こえて来た。鳴っては止み、止んでは鳴りと段々近づいて来た。
しばらくすると杜彬が琵琶を抱え出て来、止めることなく日が暮れる迄弾き続けた。公は望んだ以上のことに大変喜んだのでこの詩がある。（坐中の醉客の中で誰が最も優れていたのであろうか。杜彬の琵琶は皮で絃を作ってあった。杜彬が死んでからは莫として世に伝わらなかった。）皮の絃はいまの世の中に未だ見られない。以上、此れは陳師道の説である。葉少蘊の『避暑録』は次の様に謂っている。欧陽脩が滁州に赴任していた時、通判の杜彬は琵琶が上手であった。それ故にこの詩がある（坐中醉客誰最賢　杜彬琵琶皮作絃）。この詩が出た時、杜彬は大変気にして名前の削除を公に願い出た。しかしすでに世に伝わり、結局タブーにはならなかったのである（？）。又云うには、琵琶は撥を幾度も振り下ろすので難しい。琴も猶指を用いて難しいが、それ故本来の音色があり「轢絃護索」とも言われている。欧陽脩はかつて杜彬に琵
琶の妙を問うた。杜彬はただ使者に教えただけだったが(？)、樂工達がこれを試し撥を振り下ろしたところ皆糸が切れてしまった。それで公は笑ってこのように云った。皮絃は無いのか！だから&ldquo;皮作絃&rdquo;の句がある。しかし風流を好む人達は杜彬が本当に皮で絃を作っていたと世の中に広めたが、事実はそうではない。唐の人は賀懷智は鵾雞の筋で絃を作っていたと記している。因みに人はこれを疑った。筋は皮に比べ絃を作るべき理屈があるようだが、優れていると賞賛してはいけない。又貴い音樂は絃を珍しいもので作ると言うことだけではないであろう。また梅聖喩の醉翁吟に亦云うには、欧陽脩が赴任していた当時の滁州は、音楽としてはただ杜彬の弾く琵琶だけだったので、本当に命じたことがあったのである。(？）聖喩はまたこの詩に異なる見方をしている。以上は皆葉夢得の説である。私は思うのだが、『五代史補』にこのようにある。(瀛王道の子は皮絃の琵琶を巧みに弾いていた。世宗は演奏することを命じたが、大変喜ばれその琵琶を「繞殿雷」と名付けられた）。則ち皮絃は古くからその方法が有ることを知るのであり、杜彬はこれを得たのである。葉夢得のでたらめは疑いの無いことである。且つ又歐陽公の詩に、(私は昔滁州に左遷されていた。翁と言ってもまだ年いかぬ頃である。坐中の醉客の中で誰が最も優れていたのであろうか。杜彬の琵琶は皮で絃を作ってあった。彼が死んでからは世に伝わらず玉連鎖聲の音は黃泉の国に行ってしまった。）則ち公がこの詩を作った時には已に杜彬は死んでいたのである。どうして姓名を取り除く願いできるのか。私が推測するに葉夢得は、(坐中醉客誰最賢，杜彬琵琶皮作弦)のこの両句だけでこの話しを作ったのであろう。また、『五代史補 』を考えず、馮氏のことは古いことだったのでたまたま忘れてしまっただけといえば、いやそうではない。この誤りは甚だしい。」
</p>
<p>
&nbsp;この様に言っている。『四庫提要』に依ればこの『能改齋漫録』は考証が頗る詳しく南宋の説部の中の佳本らしい。確かに詳しく記してあり、やはり葉夢得の話しはおかしい所がある。ただ皮絃の話しは
『五代史補』の&ldquo;馮吉好琵琶&rdquo;で終わっており、『酉陽雜俎(ゆうようざっそ)』の段善本の皮弦の琵琶の話しに触れていないのが少し気になるが。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
この『能改齋漫録』とほぼ同時期に書かれた、南宋・胡仔(1095?~1170)の『苕溪漁隠叢話』にはこの『酉陽雜俎』に気付いたことが少し記されている。『苕溪漁隠叢話』は前集60巻と後集40巻から成っているがそのどちらにも  &ldquo;杜彬琵琶皮作弦&rdquo;の話しが取り上げられている。
</p>
<p>
&nbsp;
＊『苕溪漁隠叢話』前集巻第十六には
</p>
<p>
<span style="font-size: 110%"><span style="font-family: MS Gothic">《後山詩話》謂　欧陽公谪永陽　聞其倅杜彬善琵琶　酒間請之　正色盛気而謝不能　公亦不復强也　後彬置酒数行　遽起還内　微聞絲聲　且作且止　而漸近　久之　抱器而出　手不絶弹　尽暮而履　公喜甚　過所望也　故公詩云　坐中醉客誰最賢　杜彬琵琶皮作弦　自從彬死世莫傳　皮弦世未有也　苕溪渔隐曰　唐賀懐智于明皇時弹琵琶　以石為槽　鵾鶏筋作弦　用铁為撥　今杜彬以皮為弦　各自是一家也</span></span>
</p>
<p>
「 《後山詩話》謂には、（同上）欧陽脩が永陽(滁州の別名）に左遷されていた頃、副官の杜彬が琵琶が上手なのを耳にし、酒の席で弾かせようとしたが、杜彬は真顔で出来ませんと謝った。公
もまた無理強いはしなかった。杜彬がいくらか酒を飲んだ後席を外すと宴内に微かに絲の音が聞こえて来た。鳴っては止み、止んでは鳴り段々近づいて来た。しばらくすると杜彬が琵琶を抱え出て来、止めることなく日が暮れる迄弾き続けた。公は望んだ以上のことに大変喜んだのでこの詩がある。（坐中の醉客の中で誰が最も優れていたのであろうか。杜彬の琵琶は皮で絃を作ってあった。杜彬が死んでからは世に莫として伝わらなかった。）皮の絃はいまの世の中に未だ見られない。苕溪渔隐云う、唐の玄宗時代の賀懐智の琵琶は、槽は石で出来ており、鵾鶏の筋で絃を作り、撥は鉄で出来ていた。今杜彬は皮で絃を作っている。各それぞれの仕方があるものだ。」
</p>
<p>
&nbsp;後集巻第十には
</p>
<p>
<span style="font-size: 110%"><span style="font-family: MS Gothic">苕溪渔隐曰　《後山詩話》謂　六一居士聞杜彬弹琵琶　作詩云　坐中醉客誰最賢　杜彬琵琶皮作弦　自從彬死世莫傳　皮弦世未有也　丙戌歳　居苕溪　暇日因閲《酉陽雜俎》　云開元中段師能弹琵琶用皮弦　賀懐智破撥弹之　不能成声　因思永叔　無己皆不見此説　何也</span></span>
</p>
<p>
「 苕溪渔隐云う：《後山诗話》にこの様にある。欧陽脩が杜彬の琵琶を聞き、作った詩に：坐中醉客誰最賢　杜彬琵琶皮作弦。自從彬死世莫傳。皮弦世未有也。とある。丙戌の歳(1166) 苕溪に居を構え、日がな『酉陽雜俎』を読んでみるとそこには、段善本が皮絃の琵琶を弾いていたが、賀懐智がこれを弾いてみた所撥が壊れて音が出なかった、とあった。因みて欧陽脩を思えば、誰もこの説を見ないのは何故であろう。」
</p>
<p>
この様に記されている。前集が完成したのは紹興18年(1148年）、後集が乾道3年(1167年)に成立している。これを見ると前集の頃にはまだ『酉陽雜俎』を読んでいなかったようで、後集が成立する1年前に『酉陽雜俎』よみ 段善本の皮絃の琵琶に気付いたようである。そして誰もこの説を取り上げ無いのをいぶかしげに思っているが、しかし嘗て欧陽脩が本当に知らなかったかどうかは定かではない。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
＊『演繁露』程大昌(1123~1195)　序・淳煕7年(1180年)巻之十二「琵琶皮絃」の条
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 110%">&nbsp;葉少蘊石林語録謂　琵琶以放撥重為精　絲絃不禁即断　故精者以皮為之　歐公時士人杜彬能之　故公詩云　座中醉客誰最賢　杜彬琵琶皮弾絃　因言　杜彬耻以技傅丐公為改　予考公集所載贈沈博士歌　誠有此兩句　然其下續云　自從彬死世莫傳　玉練繅聲入黄泉　則公詠皮絃時彬已死　安得有丐　恐石林別見一詩即陳後山　亦疑無用皮者　然元槇琵琶歌　傾聲少得似雷吼　纏絃不敢作羊皮　又曰鵾絃銕撥如雷　房千里大唐雑録載　春州土人弾小琵琶　以狗腸為絃　聲甚凄楚　合三物観之　以皮造絃不為無證　若詳求元語　恐是羊皮為質而練絲纏裹其上　資皮為勁　而其聲還出於絲　故歐公亦日玉練繅聲也</span></span>
</p>
<p>
「葉少蘊『石林語録』はこの様に謂っている。琵琶の優れた演奏は撥を幾度も打ち放すとあるので糸は如何しても切れてしまうことがある。それ故に賢い者は皮で絃を作る。歐公の時代、杜彬は琵琶が上手であったので公の詩に（座中醉客誰最賢　杜彬琵琶皮弾絃)の句がある。それで葉少蘊は、杜彬は是を恥、公に改めることを請うた、と言っている。これを私が考えるに、公の詩集に載っている贈沈博士歌に正にこの両句があるが、その下に続いて(自從彬死世莫傳　玉練繅聲入黄泉）の句がある。これは則ち公が皮弦の句を詠じた時には已に杜彬は死んでいたということなのである。どうして請うことが出来ようか。恐らく石林は欧陽脩詩ではなく別の陳師道の詩を見たのであろう。亦、元稹の琵琶歌に（少し雷吼のようになるので敢えて絃を羊皮で作らない）とあるように、おそらく皮弦は役に立たないであろう。又鵾絃を鉄撥で弾くと雷のようだ、とも云われている。房千里の『大唐雑録』に、春州の土人は犬の腸の絃の小さな琵琶を弾き、その音は大変物寂しいと書かれている。この三つのことを合わせて考えてみると、皮で絃を作るというのはまったく根拠が無いと云うことでも無さそうである。詳しく云えば、恐らく羊皮を質としてその上に練糸が巻き付けてあるもので、皮の資質は強いのでその音は還って糸より大きく出る。だから公は亦玉練繅聲とも云ったのである。」
</p>
<p>
この様に記されているが、前記の葉夢得の『 石林避暑録(避暑録話)』には確かに琵琶は糸が切れやすいとは言っているが、賢者は皮弦を使うとは記されておらずむしろ反対のことをいっている。鵾絃を鉄の撥で弾くとその響きは雷のようであると云ってるが、そんなことが書かれている書物も見つけられない。むしろ皮絃が雷のようなのである。またここでは葉夢得の話しを批判しているが、『能改齋漫録』あたりからの引用であろうか。最後の部分の（羊皮為質而練絲纏裹其上）とは所謂琴の絃のような纏絃のことで、ここでは羊皮に絹糸を巻付けると言っているが、本当に琵琶にこのような絃を用いていたかどうかはあまり信用出来ないところである。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
元代では楊瑀の『山居新話』に少し興味深いことが記されている。
</p>
<p>
&nbsp;＊ 『山居新話』（元・楊瑀）の巻三に
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 110%">畏吾兒僧閭閭　嘗為會福院提舉　乃國朝沙津愛護持（漢名總統）南的沙之子　世習二十弦（即箜篌也）　悉以銅為弦　余每叩樂工　皆不能用也　唐人賀懷智　以鹍雞筋為弦　歐陽文忠公詩　杜彬皮作弦　後人多疑之　以此觀之　或者亦可為爾　銅弦則余親見聞也　庸田監司左答那失裏　乃閭閭之親弟</span></span>
</p>
<p>
「 ウィグルの僧、閭閭は嘗て會福院の提舉であった。すなわち我が国では沙津愛護持（漢名は総統）南的沙の子(？）で、代々二十弦（即箜篌）を習っている。その絃はすべて銅で出来ていた。私が楽工に尋ねる度に皆使うことが出来ないと云っている。唐の人賀懷智は鹍雞の筋の絃であり、歐陽文忠公の詩には杜彬の皮絃があるが、後の人の多くは之を疑った。しかし今この銅絃のことを観てみれば、或は本当のことかもしれない。銅絃は私が実際に見聞きしたことなのである。庸田監司の左答那失裏は閭閭の実の弟である。(？）」
</p>
<p>
ここでも杜彬の皮絃のことが取り上げられているが、それにしても興味深いのはこの時代銅絃があった記述である。この記述を見ると中国ではまだ使われていなかったようである。当然まだその技術も無かったのであろう。ウィグルの僧と云うからには西域から伝わった物かもしれない。この時代イラン・ペルシャやインドあたりでは已に銅絃の技術があったのかもしれない。そちらの方の歴史をひも解けば容易に判ることであろうが、とにかく中国ではこの時代にはまだ銅絃は使われてい無かったこは知れる。ただ銅絃の箜篌というからには現代のハープのような余程頑丈な楽器であったのであろうか。もしかしたら楊琴類の楽器の間違いかもしれないが。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
＊『元史新編』
</p>
<p>
この書物は清の魏源が記したものであるが その「巻七十九・楽志」に『山居新話』から引用したのであろうと思われる上記の文章がある。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
明の時代では、郎瑛の『七修類稿』に&ldquo;皮弦&rdquo;の条がある。
</p>
<p>
＊ 『七修類稿』(明・郎瑛）巻二十七　辯證類の &ldquo;皮弦&rdquo;の条
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 110%">嘗聞開元中　有賀懷智善琵琶　以石為槽　以鵾雞筋作弦　用鐵撥彈之　至今傳以為異　不知宋仁宗時杜彬又過於賀　以皮為弦　促節清音　響徹林木　故歐陽有詩憶曰　坐中醉客誰最賢　杜彬琵琶皮作弦　自從彬死世莫傳　夫絲不如竹　竹不如肉　以其漸近自然也　皮去雞筋尤遠　而能獨步巧思　亦何所致也　宜其未有而來歐公之憶也　近時有能反手彈者　皆以為異　噫　亦陋矣</span></span>
</p>
<p>
「かつて聞いたが、唐の開元中に賀懷智なる者があり琵琶を上手く弾いていた。その琵琶は石で槽を作り、鵾雞筋の絃を用い鉄の撥で之を弾いていた。今ではおそらく特別なものとして伝わっている。宋の仁宗時の杜彬は賀懷智より優れているかは知らないが、皮をもって絃となし、節を促し、音を清め、林木を突き抜けて響き渡ったので、歐陽脩の詩を思い出して云うならば「坐中醉客誰最賢　杜彬琵琶皮作絃　自從彬死世莫傳」の句がある。しかしそもそも自然の音に近くなると云うことであれば、絲(弦楽器）は竹(笛類）には及ばないし、竹は肉(声）には及ばない。皮は雞筋とは随分違うが、しかしその思いはよく一人歩きしてしまった（？）。だから歐陽脩の回想以来皮弦の句が未だないのは仕方の無いことであろう。最近は撥で弾かずよく手で弾く者がある。皆優れたものと思われているが、ああなんと見識が浅いものか。」
</p>
<p>
この著者である郎瑛は嘉靖丙寅（1566年）に80才になっているので、生まれは憲宗の成化23年（1487年）ということであるが死んだ年は判っていない。この書は嘉靖間に出版されている。『四庫提要』には鹵莽などと書かれているので粗雑なところもあるが、元、明代の史実、文学史、小説等の研究資料として一定の価値があるということである。これを見ると郎瑛は皮弦のことを余り評価していないようである。また今では当たり前の琵琶の手弾は明の嘉靖年代あたりにはまだ新しい奏法と見られていたようである。この手弾、つまり琵琶を撥で弾かず指で弾くことであるが、これは唐の貞観中(627~649)に裵洛兒なるものが始めているが、『通典』によれば徳宗の貞元中（785~804)あたりには廃れてしまっている。その後は撥弾きが主流になっているが、この『七修類稿』を信ずれば明の嘉靖間（1522~1566)あたりで手弾に大きく変化していったように思える。手弾を嫌った郎瑛が現在の琵琶の状況見たら思わず復古運動をしているかもしれませんね。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
＊明・陳継儒（1558~1639)字・仲醇、号・眉公の『珍珠舟』巻一には、杜彬の皮絃の話しではないが、前記『五代史補』巻五「馮吉好琵琶」の条から引用したであろう一節が記されている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 110%; font-family: MS Gothic">馮道之子能弾琵琶以皮為絃世宗令弾深善之因号琵琶為遶殿雷</span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
清代では藩永因編の『宋稗類鈔』巻七音楽の条に 「杜彬琵琶皮作絃」の話しが取り上げられている。
</p>
<p>
＊ 『宋稗類鈔』(序康煕・己酉　1669年）巻七
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 110%">歐文忠公在滁州　通判杜彬善彈琵琶　公每飲酒　必使彬為之　往往酒行遂無筭　故有詩云　坐中醉客誰最賢　杜彬琵琶皮作絃　此詩既出　彬頗病之　祈公改去
姓名　而人已傳　卒不得諱・・・・・文忠嘗問琵琶之妙於彬　亦以此對　乃取使教他樂工試為之　下撥絃皆斷　因笑曰　如公之絃(言)　無乃皮為之耶　故有皮作絃之句　而好事者遂傳彬果以皮為絃　其實非也　唐人記賀懷智以鵾雞筋作絃　人固疑之　筋比皮似有可作絃之理　然亦不應得許長　且所貴者聲爾　安在以絃為奇耶&nbsp;</span></span>
</p>
<p>
これは明らかに『能改齋漫録』にでたらめと指摘された葉夢得の『 石林避暑録(避暑録話)』から引用している。相変わらず死んで恥じようも無い杜彬の話しが記されている。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
清・陳元龍の『格致鏡原』には 上記、程大昌の『演繁露』からの引用の文章が記されている。
</p>
<p>
＊ 『格致鏡原』（序 雍正乙卯・1735年）巻46楽器類、琵琶の条
</p>
<p>
<span style="font-size: 110%">&nbsp;<span style="font-family: MS Gothic">程大昌演繁露　葉少蘊謂　琵琶以放撥重為精　絲絃不禁即断　故精者以皮為之　歐公時士人杜彬能之　故公詩日　杜彬琵琶皮弾絃　自從彬死世莫傳　玉練繅聲入黄泉　陳後山嘗疑無用皮者　然元槇琵琶歌　傾聲少得似雷吼　纏絃不敢作羊皮　又曰鵾絃銕撥響如雷　房千里大唐雑録載　春州土人弾小琵琶　以狗腸為絃　聲甚凄楚　合三物観
之　以皮造絃不為無證　若詳求元語　恐是羊皮為質而練絲纏裹其上　資皮為勁　而其聲還出於絲　故歐公亦日玉練繅聲也&nbsp;</span></span>
</p>
<p>
前記『演繁露』からの引用であるが、所々はしょってあるので少し意味が違ったものになっている。この文章からすると、陳後山が皮弦は役に立たないと云っているようだが彼はそんなことは云っていない。このように何も検証しないで引用し、誤字、脱字、付会が多いことは中国の古い書物ではよくあることなので、何処迄信用してよいのかは、難しい問題なのである。『秦琴の歴史』でも書いている&ldquo;絃鼗&rdquo;や&ldquo;漢式琵琶&rdquo;の記述等も日本と中国の学者との間で何処迄信用してよいのか見解が違うようである。
</p>
<p>
とにかく「 杜彬琵琶皮作絃」の話しはこのように宋、元、明、清と様々に書き継がれて来ている。これもひとえに欧陽脩の偉大さ故なのかもしれない。そして、勿論現在では琵琶の奏者で皮弦を使っている者は一人もいない。
</p>  -->
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   <title>絹絃の話</title>
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   <published>2008-07-11T08:28:45Z</published>
   <updated>2009-03-20T13:15:13Z</updated>
   
   <summary>ページをリニューアルいたしました。こちらからご覧ください。 はじめに 楽器にとっ...</summary>
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<!--
<h3>はじめに</h3>
<p class="img_R">
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</a>
</p>
<p class="clear">
楽器にとって絃というものは非常に重要なもので、各楽器の音色の違いに大きく関わってくる。音楽そのもの以前に音色自体を楽しめる私たち日本人にとって、取りも直さず日本の音楽家にとっては、絃に就いての関心を見過ごすわけにはいかない。私は秦琴の音楽を創り出すにあたり、絹絃にこだわった。絹絃独特の口では言い表せないザラリとした音色は今でも飽きることはない。毎日、毎日食べても飽きないみそ汁の様でもあるけれど、時には私の音響装置を通して、包み込まれる様な音の中で、何時間ものめり込んで弾くときもある。しかしその音色自体に飽きることはない。そんな絹絃のことを少し調べてみたので数回に分けて書いてみたいと思う。
</p>
<p>
<a href="/shinkin/silkstrings/sono1/">その一</a>【古代中国の絹弦の事情について】
</p>
<p>
<a href="/shinkin/silkstrings/sono2/">その二</a>【楽器の絃にまつわる話し、一回目】
</p>
<p>
<a href="/shinkin/silkstrings/13303/">その三</a>【琵琶の皮弦についての諸説】
</p>
<p align="center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/blog/kuwa3ok.jpg" alt="養蚕の為の桑の葉を摘む女性達" width="423" height="220" />
</p>
<p align="center">
養蚕の為の桑の葉を摘む女性達&nbsp;&nbsp;&nbsp;<span style="font-size: 80%">甘粛人民美術出版社『嘉峪関酒泉魏晋十六墓壁画』</span>
</p>  -->
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   <title>絹絃の話</title>
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   <published>2008-07-04T07:08:39Z</published>
   <updated>2009-03-20T13:13:19Z</updated>
   
   <summary>ページをリニューアルいたしました。こちらからご覧ください。 その二 前回では、古...</summary>
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      <name>深草アキ</name>
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         <category term="1320その２" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[<p>ページをリニューアルいたしました。<a href="http://akifukakusa.com/shinkin_new/silkstrings.html">こちらからご覧ください。</a></p>
<!--
<h3>その二</h3>
<p>
前回では、古代中国の絹絃の事情についていくらか判ることを書いて見たが、この回ではその他に楽器の&ldquo;絃&rdquo;について記されている中国の古い書物や文章等をいくつか挙げ、それにまつわる話をしてみたい。絹絃の楽器を演奏している音楽家には多少興味があるのかもしれないが・・・・
</p>
<p>
＊梁（502&mdash;557）蕭統の『文選（もんぜん）』弟八巻に収められている、前漢・枚乗(ばいじょう)（？&mdash;前140）の『七發』に次の一文がある。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">・・・野繭之絲以為絃（野繭野蠶之繭也）・・・</span></span>
</p>
<p>
野蚕の繭の糸を絃にする、と言っている。この野蚕の糸は前回の&ldquo;柘糸&rdquo;とは厳密に言えば違う物だろうか。それとも言い方を変えているだけであろうか。現在言う所の野蚕は野生の蚕のことであろうが、私の知人によると、この野蚕を集めて繭にしようとした所、升目の箱の中で繭にならず外に出てしまう程元気が良いらしい。この蚕とよく似た話しが元末・陶宗儀の『説郛』に収められている『賈氏説林』の中に記されている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">蠶最巧作繭徃徃遇物成形有寡女独宿倚枕不寐私傍壁孔中視隣家蠶離箔明日繭都類之雖眉目不甚悉而望去隠然似愁女蔡邕見之厚價市帰繅絲製琴絃弾之有憂愁哀動之聲問女琰琰日此寡女絲也聞者莫不堕涙</span></span>
</p>
<p>
大意
</p>
<p>
【蚕は最も巧みに繭を作るが、往々にして偶然に形に成る物もある。寡婦の女性が宿に泊まっていたが、眠れずにいたのでこっそりと、傍らの壁の穴から隣の家を覗くと、蚕が箔から出てしまっているのが見えた。日が明けてみると凡ての蚕が箔の外で繭になっていた。見た目はあまり良くないが、望みが去り内に力を秘めている愁女のようであった。蔡邕はこれが高値で売買されているのを知り（？）、持ち帰り糸を繰って琴の絃を作らせた。これを弾いたところ憂愁哀動の音がしたので娘の琰に問うた。すると琰は&ldquo;此れは寡女絲ですね&rdquo;と言った。聴く者皆涙を流さない者はいなかった。】
</p>
<p>
蔡邕(132&mdash;192)は後漢の人で音律に通じて琴を善くした。琰はその娘でこの人も又琴の名手で、幼い時に父の弾く琴の、何絃が切れたのかを言い当てたそうだ。そんな彼女であるから、この絲の音の深みが判り寡女に喩えたのであろう。第一回目で書いた通り琴の絃には普通柘葉で飼われた蚕の糸である檿絲（えんし）なる糸が使われているのだが、この野蚕と思われる糸は、皆が涙する程に音に深みがあったのであろうか。この様な記述を見ると、少し大袈裟なところもあるけれど、二千年も前から音楽は人の心に語りかけてきたのですね。ただ実際、蔡琰は寡婦暮らしが長かったのでこんな話しが作られたのかもしれないが。
</p>
<p>
枚乗(ばいじょう)が生きた前漢の頃も、蔡邕(さいよう)の後漢に於いても養蚕は已に高度なものになっていたので、この&ldquo;野蚕&rdquo;は今と同じく高価なものであった、と云うことなのであろう。枚乗(ばいじょう)の『七發』は彼が梁の孝王に仕えていた時、太子に啓告する為に作られたものなので（中国学芸大事典）、琴の絃としては普通の檿絲（えんし）ではなく、特別な野蚕の糸を用いるとしたのであろうか。<br />
しかし二千年も変わらず元気な蚕なのですねえ！
</p>
<p>
＊唐・欧陽詢(557&mdash;641)の『藝文類聚』に収められている、晋・孫諺（該・がい）の&ldquo;琵琶賦&rdquo;には次の様にも記されている。【『北堂書鈔』『初学記』『白氏六帖事類集』はすべて&ldquo;孫該（そんがい）&rdquo;】
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">・・・惟嘉桐之竒生于丹澤之北・・・弦則岱谷檿絲・・・</span></span>
</p>
<p>
【思うに良い桐は丹澤之北に生えているもので・・・絃は則ち岱谷の檿絲・・・】
</p>
<p>
この&ldquo;琵琶賦&rdquo;は勿論円体胴、直頸型の漢式琵琶のことを記したものだが、良い桐は丹澤の北に生えているもので、絃は岱谷の檿糸、と言っている。この檿糸は琴の絃のみならず、琵琶の絃にも用いられていたことが判る。又桐のことが記されているので、この頃(1700年程前)から桐が用いられていたことが知れる。当然胴体の腹板の部分であろう。<br />
岱谷は泰山のことであろうが、しかし当時の丹澤とは何処のことだろう。
</p>
<p>
孫該と同じ晋代の善弾琵琶者として知られる阮咸もやはり絃にはこの檿糸を使って琵琶を楽しんでいたのでしょう。
</p>
<p>
＊唐の盧綸（ろりん）（779〜804）の詩中に
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">玉鼻琵琶五色絲・・・・</span>（『海録碎事』巻16琵琶門より）</span>
</p>
<p>
玉鼻の琵琶の絃が五色の糸で縒られたものなのか、絃が五絃の琵琶で五色なのか判らないが後者だとしたら&ldquo;五絃琵琶&rdquo;と言うことになる。(周知のように&ldquo;五弦琵琶&rdquo;の現物は正倉院に一面残るのみ。)
</p>
<p>
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/mayu.jpg" alt="" width="252" height="189" />
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 80%">いろいろな色の繭：これらの繭の色はまったく自然の色なので、玉鼻の琵琶の&ldquo;五色絲&rdquo;はあながち根拠が無いことではないのである 。（提供ーシルクラブ）</span></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
＊唐・段成式(？&mdash;863)の『酉陽雜俎(ゆうようざっそ)』巻六&ldquo;樂&rdquo;の条には
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">古琵琶用鵾鶏股（筋）開元中段師能弾琵琶用皮絃賀懐智破撥弾之不能成聲</span></span>
</p>
<p>
【いにしえの琵琶は鵾鶏(とおまる)の筋の絃を使っていた。開元中(713&mdash;741)の人、段師は琵琶の名人で皮の弦を使っていた。賀懐智がこれを弾いたが撥が壊れて音楽に成らなかった。】
</p>
<p>
段師とは庄嚴寺の和尚の段善本(だんぜんぽん)のことで琵琶の名手であった。この時代になると琵琶と言えば&ldquo;四絃曲頸琵琶&rdquo;を指すのだが、この段善本は貞元中(785&mdash;805)に、これ又琵琶の達人として知られた康崑崙(こうこんろん)にその奏でる音に邪声があるとして十年間楽器に近づくことを許さなかった人物とされている。この記述を見ると段善本は皮弦を使っていた様だ。さしもの賀懐智もこの皮弦には撥が壊れて音も出なかった、と言う話しであるが、皮絃の記述が見られるのは私の知る限りではこの『酉陽雜俎(ゆうようざっそ)』が初めてではないかと思う。この後、皮絃の話しは色々な書物に現れるが　後々取り上げてみる。
</p>
<p>
そして又、いにしえの琵琶は鵾鶏(とおまると言う鶏の一種)の筋の絃を使っていた、と記されているが、実はこの賀懐智も相当な音楽家で、鵾鶏の筋の絃を使って琵琶を弾いていた話しが、段成式の息子である段安節の『樂府雑録』に記されている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">開元中有賀懐智其楽器以石為槽鵾鶏筋作絃鉄撥弾之・・・</span></span>
</p>
<p>
【開元中(713&mdash;741) に在世した賀懐智なる者の楽器は胴体が石で出来ており絃は鵾鶏の筋で作られ、これを鉄の撥で弾いていた・・・・】
</p>
<p>
このようなものだ！　しかしこれが本当だとしたらすごく重いでしょうね。そして鉄の撥で弾いていたのだから、絃は鵾鶏の筋を何本も撚り合わせた丈夫な物であろう。ただどうしてこの様な琵琶を作ったのか、今の感覚からすると良く判らないところもあるが、もしかしたらこの賀懐智はかなりの大男でこの石槽の琵琶を軽々と弾いていたのかも知れない。
</p>
<p>
宋・楽史(910&ndash;1007)の『楊太真外伝』に、賀懐智がこの石槽の琵琶を玄宗皇帝と楊貴妃の前で演奏したことになっているが、どんな音がしたのだろう。
</p>
<p>
＊この賀懐智と段善本と康崑崙に関して唐・元稹(げんしん・779&mdash;831）の『元氏長慶集』巻二十六&ldquo;琵琶歌&rdquo;には次の様なことも記されている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">琵琶宮調八十一調旋宮三調弾不出玄宗偏許賀懐智段師此藝還相匹自後流傳拍撥衰崑崙善才徒爾為[]聲少得似雷吼纏絃不敢弾羊皮・・・・</span>[]は、さんずいに項</span>
</p>
<p>
大意
</p>
<p>
【琵琶の調は三調を基に、旋宮をして八十一調を作る。玄宗は賀懐智を偏って賞賛した。段師の技は尚又賀懐智に匹敵するものであったが、世に広まった後衰えてしまった。崑崙は才能の有る人物である。音がこもり、すこし雷吼のようになる為、敢えて絃を羊皮にしなかった・・・。（纆絃は一番太い絃のことかもしれない。又、琴の絃の様に芯の絃に細い糸を巻付けたものを纆絃と云うが、琵琶にこのような絃を用いていたのかもしれない。）】
</p>
<p>
前記『酉陽雜俎』よると段師は皮絃を使っていたのだが、その教えを請うた崑崙は敢えて皮絃を使わなかったようである。この当時は様々な絃を用い人それぞれの音色を追求していたようだが、現在では絹弦にしろ、スチール絃にしろ、なにか画一的になっている様な気がする。音の音色にそれほど重点を置かなくなってしまったのだろうか。又、羊皮と記されているので、この皮絃は羊の皮で作られていたようである。
</p>
<p>
玄宗は賀懐智を重用していたようだが、賀懐智が玄宗皇帝に上手く取り入っていたことは『酉陽雜俎』にこんな話しもある。
</p>
<p>
【ある時、賀懐智が玄宗皇帝と楊貴妃の前で演奏していると楊貴妃の襟の布が風に吹かれて彼の頭巾の上に落ちた。賀懐智が家に帰るとあまりに良い香気が移っていたのでその頭巾を袋に入れて仕舞って於いたそうだ。その香気の滲み込んだ頭巾を楊貴妃が殺されて嘆き悲しんでいた玄宗皇帝に献上した】と言う様なことが記されている。この当時の取り入り方も何とまあ優雅なものだ。だけどこんなことしたら余計に悲しくなるでしょうね。
</p>
<p>
＊唐・鄭処誨の『明皇雑録』の一節から
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">中官白秀貞自蜀使回得琵琶・・・・・・</span></span>
</p>
<p>
【宦官の白秀貞が蜀の使いから帰り、琵琶を持ち帰ってきた・・・】とあり、前記、宋・楽史（910&minus;1007）の『楊太真外伝』にはこの琵琶の絃についての記述がある。（『明皇雑録』には何故か絃についての記述は無く、年代的には遅く書かれている『楊太真外伝』に絃の話しが追加されているのは少し疑問なのだが。）
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">中官白秀貞自蜀使回得琵琶・・・・・・絃乃未可彌羅国所貢緑冰蚕絲也・・・</span></span>
</p>
<p>
【宦官の白秀貞が蜀の使いから帰り、琵琶を持ち帰ってきた・・・絃は乃ち未可彌羅国が献上してきた緑の冰蚕絲である・・・・】
</p>
<p>
宦官の白秀貞が蜀から使者として帰り、その時得た琵琶を楊貴妃に献上したのだが、その張られた絃は未可彌羅国（今の西パキスタン辺りに在った国らしい）からの貢ぎ物の冰蚕絲で出来ている、と記されている。
</p>
<p>
ちなみにこの&ldquo;冰絃&rdquo;は『元史』巻六十八の琴の一節にもその絃として記され、琴の絃の代名詞にもなっている。要するに冰蚕の繭から繰られた糸で作られた絃と言うことだが、この冰蚕と言うのはものすごい蚕らしく、五胡十六国時代・前秦の王嘉『拾遺記』に依れば、【山中の霜雪の中に住み長さが七寸位（22〜23cm位）、黒色で角と鱗が在り一尺程の繭をその雪中に作る。色が五色に輝きその糸で布を作れば水に入れても濡れず火に投じても燃えない】、と言う代物だそうである。
</p>
<p>
その昔に本当にこんな蚕がいたのかどうかはちょっと信じられないが、前記『楽府雑録』の&ldquo;康老子&rdquo;と言う曲の逸話にこんな話しも記されている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">康老子即長安富家子落魄不事生計常與国楽游處一旦家産蕩盡偶一老嫗持舊錦褥貨鬻乃以半千獲之尋有波斯見大驚謂康日何處得此是氷(冰)蠶絲所織若暑月陳於座可致一室清涼即酬千萬康得之還與国楽追歓不經年復盡尋卒後楽人嗟惜之遂製此曲亦名得至寶<br />
明皇初納太真妃喜謂後宮日予得楊家女如得至寶也遂製曲名得寶子</span></span>
</p>
<p>
大意
</p>
<p>
【康老子は長安の富豪の家の息子であった。豪快な性格で家計を顧みず音楽などに遊び呆けていたので一旦は財産を使い果してしまった。たまたま老婆に出会い古い錦の敷物を売っていたので半千で之を得た。ペルシャ人に尋ねてみると大変驚き康に向かってこう言った。此れを何処で手に入れたのですか。是は氷(冰)蠶絲で織ってあり、暑い月にはこれを敷けば一部屋が涼しくなるというもので、千萬の価値があるものです。しかし康はこれを得ても尚遊び呆けていたので、年経たずして又財産を使い果してしまった。彼が死ぬと間もなく楽人がこの愚かさを嘆きこの曲を作った。又の名を&ldquo;得至寶&rdquo;と言う。
</p>
<p>
玄宗皇帝が初めて楊貴妃を娶ったとき、喜んで楊貴妃にこう言った。&ldquo;予は楊家の女を得た。まるで最高の宝物を手に入れた様だ（得至寶）。&rdquo; そしてこのことから&ldquo;得寶子&rdquo;と云う曲が作られた。】
</p>
<p>
このような記述を見ると唐の当時でも氷(冰)蠶絲の織物は相当高価な物であったようである。今でも絹のペルシャ絨毯は高価な物だけれど。しかし冰蚕なるものが本当にいたとは信じられないが、『楊太真外伝』には&ldquo;緑冰蚕絲&rdquo;とあるので、綺麗な淡い緑色の糸になる&ldquo;天蚕&rdquo;なのかもしれない。
</p>
<p>
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/tensan.jpg" alt="" width="248" height="186" />
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 80%">淡緑色している天蚕の原糸&nbsp; (提供ーシルクラブ）</span></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
【次回に続く】
</p>  -->
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【秦琴の歴史】北宋時代</title>
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   <published>2008-06-30T01:54:49Z</published>
   <updated>2009-03-20T13:03:48Z</updated>
   
   <summary>ページをリニューアルいたしました。こちらからご覧ください。 北宋時代 北宋時代 ...</summary>
   <author>
      <name>深草アキ</name>
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         <category term="1060北宋時代" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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<h3>北宋時代</h3>
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北宋時代<a href="http://akifukakusa.com/shinkin/pdf/history06.pdf" target="_blank">
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</a>
</p>
<p class="clear">
&nbsp;
</p>
<p>
第二回は宋代からの「阮（阮咸）」の経緯について話をしたいと思う。
</p>
<p>
&mdash;　北宋代に於いて　―
</p>
<p>
前記した様に漢代に現れ「批把（琵琶）」と記され、円体胴に直頸の棹を持ち四弦とされている楽器は、(漢代に確かにこの様な形体であるかは疑問だが）六朝時代おおいに流行し（三条の弦を持つものも現れているが）隋・唐の時代になるとそれらの楽器は総称して&ldquo;秦琵琶&rdquo;と呼ばれ、隋・唐当時のものは「秦漢子」と号されていた。その後形を一回り大きくし「阮咸」と名付けられ、後に「月琴」とも称される様になった。又唐代には「三絃」と呼ばれた楽器も現れていたが、前記したように柳宗元謂う所のこの「三絃」は宋代に伝わった形跡が見当たらず、「三絃」の記述が載る宋代の書物も管見ではあるが見付けられない。しかし「阮咸」は唐の開元中に雅楽に編入されていることもあり、宋代の宮廷に於いても用いられていた。したがって、宋代からはこの「阮咸」もしくは「阮」と呼ばれる楽器を追ってゆくことになる。
</p>
<p>
ちなみに「阮咸」を「阮」とも呼ぶようになったのは宋代からとしていることが多いが、『太平広記』巻二百十四&ldquo;畫五&rdquo;の「雜編」の条に『盧氏雜説』からの引用として次のような一節がある。<br />
<br />
<span style="font-size: 110%; font-family: MS Gothic">・・・・椅 玄質子&nbsp; 紹孫 高雅博古 善琴阮。・・・・・</span><br />
「椅の子、绍孫は高雅で博識があり琴や阮を好んで弾いていた。・・・・」<br />
<br />
『盧氏雜説』は唐末には完成しているので、「阮咸」は唐末には已に「阮」とも呼ばれていたのかもしれない。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
北宋の徽宗（1100&minus;1125）の頃、陳暘によって著された『樂書』には興味深い記述が色々と記されているのでまず取り上げてみたい。この『樂書』自体の研究は様々に為されているし、又全訳も試みられている様なので興味のある方はそちらを参照されたい。
</p>
<p>
『樂書』には円体胴に直頸型の棹を持つ楽器として「秦漢琵琶」「月琴」そして「阮咸琵琶」の三種類の楽器が記されている。
</p>
<p>
巻百二十九の樂圖論・胡部八音・絲之属下には「秦漢琵琶」として、次の様に記されている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 110%"><span style="font-family: MS Gothic">秦漢琵琶本出於胡人弦鼗之制圓體修頸如琵琶而小柱十有二</span></span>
</p>
<p>
【秦漢琵琶は西域の人によってもたらされた。弦鼗の制をもち円形の胴に真っ直ぐな棹で琵琶のようだが少し小さい。柱は十二有る。・・・・】
</p>
<p>
と記されているので、恐らく所謂「秦漢子」のことを謂っていると思われるのだが。
</p>
<p>
又、巻百四十一の樂圖論・俗部八音・絲之属には「月琴」としてこの様に記されている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 110%"><span style="font-family: MS Gothic">月琴形圓項長上按四絃十三品柱豪琴之徽轉絃應律晋阮咸造也唐太宗更加一絃各其弦日金木水火土自開元編入雅楽用之豈得舜之遺制歟大中 (詔)待詔張隠聳者其妙絶倫蜀中亦多能者</span></span>
</p>
<p>
【月琴は円形で棹は長く思うに四絃で、十三の柱は琴の徽に倣っている。絃を転じて様々な調に対応する。晋の阮咸が造った楽器である。太宗が(唐太宗となっているが宋太宗の誤り)更に一絃加え、其の絃をそれぞれ金、木、水、火、土とした。開元時より雅楽に編入され用いられた。まさに舜帝の遺制ではないか。唐、大中時、待詔の張隠聳(ちょういんしょう)なる者はこの技が絶妙であった。蜀にはこの楽器をうまく弾く者が多い。】
</p>
<p>
これは正に唐の阮咸のことを言っている。前記『樂府雑録』にも阮咸の達人として&ldquo;張隠聳&rdquo;の記述があるのでおそらく其処から引用したのかも知れない。「唐の太宗が一弦加えた」と記されているのは後記する様に「宋の太宗」の誤りなのだが、とにかくこの記述に依れば、この「月琴」は一絃加えられた五弦の楽器になっている。<br />
この五弦となった楽器については、巻百四十五の「阮咸琵琶」の条には以下の様な記述もある。
</p>
<p>
<span style="font-size: 110%"><span style="font-family: MS Gothic">阮咸五弦本秦琵琶而頸長過之列十二柱焉唐武后時蒯郎(明)於古塚(冢)得銅琵琶晋阮咸所造元(亭)行沖(中)命工以木為之声甚清徹頗類竹林七賢圖所造舊器因以阮咸名之亦以其善弾故也太宗舊制四絃上加一絃散呂五音・・</span></span>
</p>
<p>
【阮咸は五弦である。もともとは秦琵琶だが棹が長く柱は十二個になっている。唐の武后の時、蒯郎が古い墓で銅製の琵琶を見つけた。晋の阮咸が造った楽器であった(晋の阮咸が作った琵琶の銅製のものを見つけた）元行沖が工人に命じて木で造らせたところとても清涼な音がした。舊器は竹林の七賢図に頗る類し、又この楽器を好んで弾いていた阮咸に因んで名付けられた。太宗が旧制の四絃に一絃加えた。散声は呂の五音になる。・・】
</p>
<p>
此処に、一回目の「隋・唐時代」で書いた「阮咸命名話し」が記されている。これは「月琴」の条に記したほうが適切ではないかと思うが、とにかくこの記述をそのまま受け取れば『楽府雑録』では阮咸とされていたものを月琴とし、その阮咸を五絃の阮咸琵琶としている。しかしどうもそれぞれの記述に交錯しているところが多い。ただ南宋・馬端臨の『文献通考』には殆どそのまま引用されているが。勿論北宋の時代にこの三種類の楽器が同時に存在していて実際に用いられていた、と云う訳ではないであろう。
</p>
<p>
陳暘謂う所の「秦漢琵琶」は、柳宗元の『絃子記』に依れば漢の時代、胡部の音楽をする者はこれを習っていたそうだが、六朝時代には所謂知識人の楽器になっていたし、隋・唐時代は中国的な音楽である清楽に用いられていた訳であるから、なぜ胡部の音楽に入られているのかよく判らない。「阮咸」は唐末の李匡乂・『資暇集』に依れば、唐末には已に「月琴」と呼ばれていたのかもしれないが、同じ唐末の『楽府雑録』には「阮咸」として記され「月琴」の名は見られない。この『樂書』の「月琴」の条には【按四絃十三柱・・・（思うに四絃で十三の柱・・・）】等と記されているので陳暘の時代、実際には「月琴」なる楽器はもう無かったのかもしれない。と言うより直頸円形型のものはこの時代已に「月琴」と呼ばれていなかったのかもしれない。【もし陳暘の時代に実際に月琴と呼ばれた楽器が存在していたとすれば&ldquo;按ずるに&rdquo;という言葉は用いないと思うのだが】同じ北宋の『事物紀原』には「阮咸」はただ「阮」と呼ばれる様になったとも記されているが、これらは勿論皆、唐の「阮咸」の流れを汲むものである。
</p>
<p>
とにかくこのように、宋の「阮咸」は太宗によって五弦の楽器に作り替えられている。このことは南宋・章如愚の『山堂考索』巻五十に、又『宋史』にも記されているが、『宋史』巻百二十六によれば、至道元年(995)に太宗によって「五絃阮」なる物が作られ、同時に作られた「九絃琴」の曲譜と合わせ新譜三十七巻も定められている。「五絃阮」の曲としては新しく宮調・鶴唳天弄、鳳吟商調・鳳来儀弄、の二曲が制定され、旧曲を新しくしたものは、宮調&mdash;四十四曲、商調&mdash;十三曲、角調&mdash;十一曲、徴調&mdash;十曲、羽調&mdash;十曲、黄鐘調&mdash;十九曲、無射商調&mdash;七曲、瑟調&mdash;七曲、碧石調&mdash;十四曲、慢角調&mdash;十曲、金羽調&mdash;三曲、　と記されているが現在に伝わっていないのでどの様な曲なのかは全く判らない。
</p>
<p>
又、陳暘の『樂書』にはこの「阮咸琵琶」条に当時の「五絃阮」の調弦を解明出来る手がかりとなる記述があるので、次回ではこの記述をもとにその調弦を解明し、また舊器と記されている当時の四絃の「阮咸」の調弦にも触れてみたい。
</p>
<p>
北宋の類書である『太平御覧』（李昉(りほう)・983年成書）には、琵琶の条に劉煕の『釈名』や傅玄の『琵琶賦』の記述が在るが、阮咸まで記述が及んでいない。又同じく李昉が関わった『太平広記』には前に書いた『国史異纂』や『廬氏雑説』の「阮咸命名話し」が記されているだけであるし、呉淑(ごしゅく)の『事類賦』には琵琶の条すら無い。劉孝孫の『事原』(これは若しかしたら南宋の書物かもしれないが。)の阮咸の条にはいつもの「阮咸命名話し」と『資暇集』からと思われる月琴の話しが少し載るだけである。又、陳暘の兄である陳祥道の『礼書』巻百二十四の「瑟」の条には、漢の琵琶や阮咸に若干触れている文章が在るが、【漢之琵琶箜篌晋之阮咸此皆倣琴瑟而為之歟(漢の琵琶、箜篌、晋の阮咸は皆琴や瑟に倣ってできたのか？)】と記されているだけであるし、王欽若の『冊府元龜』や、晏殊の『類要』にも阮咸の記述は無い。高承の『事物紀原』には「阮」の条は在るにはあるが、これも又『通典』や『資暇集』からの引用だけである。ただ咸豊肥なる人物が四絃十三柱のこの楽器を造ったとあるが、咸豊肥なる人物はいかなる書物からの引用なのか不明である。
</p>
<p>
この『事物紀原』には「阮咸」については目新しい記述は無いが、「嵆琴(けいきん)」の条に少し興味深い記述が在るので記しておきたい。
</p>
<p>
<span style="font-size: 110%"><span style="font-family: MS Gothic">杜摯賦序日秦末人苦長城之役絃鼗而鼓之記以為琵琶之始按鼗如鼓而小有柄長尺餘然則繋絃於鼓首而属之於柄末與琵琶極不彷彿其状則今嵇琴也是嵇琴為絃鼗遺象明矣・・・・今人又號嵇琴為秦漢子・・・</span></span>
</p>
<p>
【杜摯賦の序に秦末、長城の役に苦しんだ人びとが絃鼗を弾いていたとあり、これを琵琶の始めと記しているものもある。思うに鼗は鼓の小さいもので柄の長さが一尺余りあり、これを則ち鼓面から絃を繋いで柄の末に取り付ける。これはまったく琵琶を彷彿させるものではないであろう。其の形は今の嵇琴である。これを見れば嵇琴は絃鼗の形を今に残しているのは明らかである。・・今の人は嵇琴を号して秦漢子といっている。】
</p>
<p>
前記『樂書』巻百二十八の「奚琴」の条にも同じ様な事が記されているが、「嵇琴」は「奚琴」とも記され、唐・崔令欽の『教坊記』にも「嵇琴子」として現れている。又嵇康が造ったとも、奚族の楽器ともいわれ、最初は竹の棒で擦って演奏していたいわば胡弓系の先祖の様な楽器。（『事物紀原』には竹林の七賢人の一人である嵇康が作ったので嵇琴と名が付いたと言うのは、言い伝えとしても一理あると記されているし、又南宋末の陳元靚・『事林廣記』には正に嵇康が作ったと記されているが、どうも腑に落ちない話しではある・・。）
</p>
<p>
何れにしても北宋では胡弓系のこの「嵇琴」を「秦漢子」とも呼んでいたのかも知れない。
</p>
<p>
宋・江葉得の『崑竹論』は律呂の書物であったし（これは南宋の書物かもしれないが）、阮逸(天聖年間1023&mdash;1031、進士)の『皇祐新樂圖記』にも、又北宋の音楽のことで良く参考にされる沈恬(しんかつ1031&mdash;1095)の『夢溪筆談・補筆談』にも「阮咸」の記述は見当たらないが、この阮咸を北宋ではどんな人がどのように演奏していたのだろうか。
</p>
<p>
孟元老が著した『東京夢華録』には北宋の都、汴京での民衆の暮らしが生き生きと描かれ音楽に関する記述も多くあるが&ldquo;、「阮咸」に関しての記述は残念ながら見当たらない。文瑩の『玉壺清話』や邵博温の『邵氏聞見録』にも、又神宗、徽宗、欽宗の三代の逸話が記された『大宋宣和遺事』にも楽器の記述は無い。陳師道(1053&mdash;1101)の『後山居士詩話』や葉夢得(1077&mdash;1148)の『石林避暑録』には琵琶の絃の話しはあるが、「阮咸」の記述は無い。（この絃の話しは「糸の話し（三）」の中で取り上げたい）
</p>
<p>
その他幾らかの書物に目を通してみても、北宋代での「阮（阮咸）」の演奏等の様子を記述してある書物はなかなか見つけられないが、南宋・張邦基の『墨荘漫録（ぼくそうまんろく）』に北宋末での&ldquo;阮&rdquo;の演奏に触れた一節があるので取り上げてみたい。
</p>
<p>
『墨荘漫録』の序によれば、建炎元年(1127)、張邦基は楊州に閉居し、蔵書が好きでその住居を墨荘と名付けたとあるが、李剣国氏の考証に依るとこの書物は紹興18年(1148年)以後に作られたと推定されるらしい。（王曉平氏&mdash;『願文にひそむ俗文学』p18）<br />
その&ldquo;巻之九&rdquo;に北宋の都&ldquo;汴京&rdquo;での「阮」の演奏の様子に触れた一節がある。
</p>
<p>
<span style="font-size: 110%">『墨荘漫録』巻之九より</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">琴阮皆樂之雅者也琴則人多能之而藝精者亦衆至阮則人罕有造其妙者中都盛時有醴泉観道士王慶之頗有此樂同時有安敏修者以此藝供奉上前徽廟顧遇厚於倫輩二人者其能相抗予在京師皆嘗聴之慶之則間雅多則古曲優逸不迫敏修則變移宮徴抑怨取興雜以新聲然皆妙手絶藝也後慶之不知存亡敏修被虜北去未幾[]而南帰今習阮者未有能及此二人也&nbsp;</span></span>
</p>
<p>
【大意】
</p>
<p>
【琴と阮はどちらも雅(みやび)な音楽である。琴は演奏する人も多く、又上手な人も多いが阮はめったに成就する者がいない。其の中でも妙手と言えば都(汴京)が盛んだった頃に醴泉観の道士、王慶之がこの阮を大変上手に弾いていた。又同時に安敏修なるものがこの阮の演奏で皇帝につかえ厚遇を受けていた(？)。この二人はともに良きライバルであった。私が都に居たときこの二人の演奏を聴いた事がある。慶之の演奏は古曲が優れていてゆたっりとして雅びであった。敏修は五度転調など変化があるが、ただ新曲が少し乱雑かもしれない。しかしどちらも素晴しいものであった。後になり慶之は消息が判らなくなり、敏修は侵攻してきた&ldquo;金&rdquo;に捕えられ、北に連れ去られ未だ消息が分からない。南宋になった今、阮を習う者はいるがこの二人に及ぶ者はいない。】
</p>
<p>
この記述を見ると北宋では「阮」なる楽器は琴と同様に雅びな楽器として捉えられていた様だが、なかなか難しい楽器であったようだ。これらの「阮」は太宗に依って作られた「五絃阮」ではなく民間に伝わっていった四弦のものだと思うのだが、当時もまたかなり貴重な楽器であったのであろう。<br />
そしてこの王慶之と安敏修の二人の達人は、中国の激動の歴史の中に消えていった。
</p>
<p>
<span style="font-size: 130%; font-family: MS Gothic">追補</span>ー前記『大宋宣和遺事』には、政和二年(1112年)に徽宗依って賜れた宮中の宴で、美しい宮女に琴や阮を演奏させたことが記されている。この宴では殿上と階段で箏、竽、琵琶、方響、笙、蕭が合奏されたことが記されているが、琴と阮はこれらの楽器とは別に記されているので、やはり阮は、琴と同様に雅びな楽器として扱われていたようである。この阮は太宗に依って作られた&ldquo;五絃阮&rdquo;ではなく四絃のものであろう。また&ldquo;五絃阮&rdquo;については『玉壺清話』の釈文瑩が著した『續湘山野録』には次の様な記述もある。
</p>
<p>
<span style="font-size: 110%; font-family: MS Gothic"><span style="font-family: MS Gothic">太宗作九絃琴七絃阮・・・・・文瑩京師遍尋琴阮待詔皆云七絃阮九絃琴蔵秘府不得見</span></span>
</p>
<p>
【太宗は九絃琴と七絃阮を作られた・・・・文瑩は都で隈無く琴阮を尋ねたが、待詔達は皆、七絃阮と九絃琴は蔵に秘蔵されていて見ることが出来ないと云った。】
</p>
<p>
ここに記された&ldquo;七絃阮&rdquo;は明らかに&ldquo;五絃阮&rdquo;の誤りである。文瑩の生没は未詳だが、凡そ仁宗、英宗、神宗の間に（1022～1084)在世、活動していた人で、この『續湘山野録(湘山續録)』は『玉壺清話』が書かれた二年前すなわち1076年に撰述されている。この記述を見ると、太宗から凡そ80年程経たこの時代でも&ldquo;五絃阮&rdquo;は、尚も蔵に秘蔵されているような貴重な楽器であり、待詔といえども見ることすら出来なかったようである。このような&ldquo;五絃阮&rdquo;が民間に伝わるわけが無いが、これから少し時代が下った、陳暘の『樂書』には前記したように当時の太常楽工の俗譜から採った&ldquo;五絃阮&rdquo;の柱の律名が記されているので、この&ldquo;五絃阮&rdquo;なる楽器は貴重な楽器ではあったけれども、実際にも使われていたことが判る。
</p>
<p>
次回は、陳暘『樂書』「阮咸琵琶」の条に記された記述を手掛かりとして、五弦となったこの「五絃阮」の調弦を解明してみたい。
</p>
<p class="nextpre">
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</p> -->
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   <title>絹絃の話</title>
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   <published>2007-12-24T04:19:26Z</published>
   <updated>2009-03-20T13:14:11Z</updated>
   
   <summary>ページをリニューアルいたしました。こちらからご覧ください。 その一 よく人に、絃...</summary>
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<h3>その一</h3>
<p>
よく人に、絃は何ですかと聞かれることがある。そして絹糸です、と答えると、昔の中国でも絹糸を使っていたんですかと、また聞かれたりもする。楽器の絹糸の伝統はいつごろからだろうか。現在の中国の楽器の絃はすでにほとんどが絹糸ではなく、スティール製のものになっているが、もちろんその昔はスティール製の絃などなかった訳で、であるならば、楽器の絃は最初から絹糸だったんだろうか。
</p>
<p>
楽器の絃はその張られる楽器がなければ存在しないのは自明のことであるが、中国の絃楽器の中で最も初期に現われたものといえば琴（現在の七絃琴とは形体が少し異なるものであろうが。)瑟の類で、その時期は郭沫若(かくまつじゃく)氏に言わせれば、&ldquo;秦琴の歴史&bdquo;の中で記述した様に春秋時代の初頭、もしくは西周後期の今から２８００～２９００程前らしい。【五胡十六国、前秦・王嘉の『拾遺録』巻二&rdquo;殷湯&rdquo;の条に殷の楽師である師延なる者が一絃琴を弾いていたと記されている。これを信ずれば殷の時代には已に一絃琴なる弦楽器が存在していたことになるが。・・ひとまずこれは伝説としておきたい。】
</p>
<p>
勿論琴、瑟などのある程度完成した楽器が出現する以前に、様々な素朴な弦楽器が存在していたと考えられるであろうが、絹弦を用いると言うのは当時の支配者の権威の下でしか行われなかった訳であるから、絹弦を製造すると言うのはその支配者の支配の下で行われた、組織的な出来事だったのであろう。
</p>
<p>
とにかくこの琴、瑟出現時期にすでに絹絃が存在していなければならないが、実は中国に於いての養蚕は殷の時代の中期ごろにはすでにかなり高度なものになっていたので、楽器の絹絃が作られる素地はもうすでに十分出来ていた。【中国の養蚕については布目順郎氏の『養蚕の起源と古代絹』を参考にした】殷中期から西周後期頃までは少なくとも５００～６００年程あるので、楽器の絃を作ることなど容易なことだったのだろう。以下、中国に於いて楽器の絃は書物にはどの様に記されているのか、幾らか調べたことを書いてみたい。
</p>
<p>
明代の音楽書の中でこんな一節を見つけた。弘治、辛酉（弘治１４年、１５０１年）に李文利(りぶんり)によって著された<span style="font-size: 105%; font-family: MS Gothic">『大楽律呂考註(たいがくりつりょこうちゅう)』</span>と言う書物なのだが、巻之三の&ldquo;楽器&rdquo;の章の巻頭に次の様な記述があったので此処から少し探ってみた。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">夏書禹貢青州厥篚檿絲</span></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">蔡氏日檿山桑也山桑之絲其韌中琴瑟之絃</span></span>
</p>
<p>
上段<br />
「夏書(かしょ)の兎貢(うこう)の編には、青州は篚(ひ)と檿絲(えんし)を産するとある。」（青州は明の永楽(えいらく)時に音州府といわれた今の山東省の北部あたり)
</p>
<p>
下段<br />
「蔡氏言うには檿(えん)は山桑である。山桑で飼った蚕の糸は強くてしなやかなので琴と瑟の絃にする」（ちなみに篚(ひ)は円筒形の竹かごである。）
</p>
<p>
この様に記されていた。
</p>
<p>
上段の『夏書(かしょ)』とは孔子が編したと言われる『尚書(しょうしょ)』の中の篇名で夏王朝の時代のことを記したものである。この『尚書』は秦の焚書にあって散佚したが、秦の博士であった伏生(伏勝）が壁の中に隠したと謂れ、その後、漢の文帝のとき（前１７９～前１５７）これを得た。これを『今文尚書(きんぶんしょうしょ)』といい伝承の正しいものの一つとされている。そこでこの『今文尚書』を当たってみると確かに『虞夏書』の&ldquo;兎貢&rdquo;の編に
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">&ldquo;厥斐、酓絲&rdquo;</span></span>
</p>
<p>
と記されていた（字は違うが同じ意味であろうか）。
</p>
<p>
東晋の元帝（３１７～３２２）の時、梅賾(ばいさく)が献上した、前漢・孔安国(こうあんこく)注の『尚書孔子伝』には次のように註釈されている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">厥篚、檿絲：檿桑蚕絲中琴瑟弦</span></span>
</p>
<p>
「篚（竹かご）檿糸：檿桑で飼った蚕の糸は琴や瑟の弦にあてる。」と記され、酓絲を檿絲とし、檿桑で飼った蚕の糸としている。そして孔安国に云わせればそれは琴や瑟の絃に良いのである。
</p>
<p>
&ldquo;孔安国注&rdquo;のその又注釈書でもある、唐・孔頴達(こうえいたつ)の『尚書正義(しょうしょせいぎ)』にはこれを次の様にも注釈している。
</p>
<p>
「釈木に「檿桑(えんそう)は山桑(やまぐわ)」とあり郭璞(かくはく)（字、景純２７６～３２４）は「柘(シャ)の類」という。檿絲(えんし)はこの檿桑を食ってできた蚕の糸であるがじょうぶで琴や瑟の弦に適するのである」
</p>
<p>
要するに、中国最古の文字を説明した書物である『爾雅』の&ldquo;釈木&rdquo;には檿桑は山桑とあり、その『爾雅』を&ldquo;注&rdquo;して西晋の郭璞は柘(シャ)の類であると云っている訳である。
</p>
<p>
この様に『尚書』をそのまま信ずれば、「夏書」にはすでに檿絲（酓絲・えんし）なる記述があるが、&ldquo;夏&rdquo;は&ldquo;殷&rdquo;の前の時代であるから「夏書」というのは少し大げさにしても、前記した様に殷代中期頃には養蚕は已に高度なものになっていたので、殷代にはこの檿絲（酓絲・えんし）なる絲が存在していたのであろう。ただ殷代にこれらの絲のことを檿絲（酓絲・えんし）と云っていたのかどうかは判らない。檿桑という言葉は『爾雅』でも取り上げられ、『周禮&middot;冬官考工記』にも「弓人取榦之道，柘爲上，檿桑次之」と記されている様に周代に使われていたかもしれない。漢代では檿絲を檿桑を食ってできた蚕の糸とし、確かに琴や瑟の絃に用いられていた。このようなのでおそらく琴・瑟類が現れた西周～春秋時代にもこの檿絲（酓絲）なる絲はすでに琴や瑟の絃に用いられていたと思われるのである。
</p>
<p>
又上記『大楽律呂考註』の下段に記述がある蔡氏というのは後漢の蔡邕(さいよう・１３２～１９２）のことで、ここでも又「檿は山桑でその糸は強くしなやかなので琴や瑟の絃にする」と記されている。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
もう一つ明代の書物を取り上げてみたい。明・朱権(しゅけん)の著した書物である。朱権(しゅけん)は寧献王(ねいけんおう)といわれ、明の太祖の十六子で号を臞仙(くせん)とも涵虚子(かんきょし)ともいい丹丘先生(たんきゅうせんせい)とも言われる。その朱権が永楽の癸巳(きし)（11年）1413年に著した<span style="font-size: 105%; font-family: MS Gothic"><span style="font-family: MS Gothic">『太音大全(たいおんたいぜん)』</span></span>なる書物がある。琴の制度や弾法を記した書物だが、その巻之一の「辨絲法(べんしほう)」にも次の様なことが記されている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">禹貢青州厥篚檿絲<em>斉民要術</em>云柘蚕絲宜為絃清明響徹勝於凡絲伯牙用原蚕絲（原蚕二蚕也）</span></span>
</p>
<p>
ここにも又&ldquo;禹貢&bdquo;の青州・檿絲のことが記されていた。
<img class="img_R" src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/saiminyoujitsu.jpg" alt="斉民要術" title="斉民要術" width="100" height="133" />
そして『斉民要術(せいみんようじゅつ)』から引用して柘蚕(しゃさん)の糸が絃に宜(よろ)しいとあり、又伯牙(はくが)は原蚕(げんさん)の糸を用いたと記されている。
</p>
<p>
ここに記された<span style="font-size: 105%; font-family: MS Gothic">『斉民要術(せいみんようじゅつ)』</span>とはいかなる書物なのだろう。本当にこの様なことが記されているんだろうか。原蚕って何んだろう。そんな思いで「斉民要術』を繙いた。
</p>
<p>
『斉民要術』十巻は後魏（４３９～５４３）の賈思勰(かしきょう)が著した中国最古の農業書であった。その巻五の「種桑柘第四十五（養蚕附）」の条に確かにこの様に記されていた。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">柘葉飼蚕絲好作琴瑟等弦清鳴響徹勝凡絲遠矣</span></span>
</p>
<p>
【柘葉(しゃよう)」（中国で「柘」といえば「針桑(はりぐわ）のことで「山桑(やまぐわ）とは違う種類の桑らしいがこの時代にそのような区別があったかどうかは判らない）で蚕を飼うと好い糸がとれる。琴、瑟等の弦を作ればその音の響きの透徹なことは凡絲と比べればはるかに勝る】
</p>
<p>
そして&ldquo;原蚕(げんさん)&bdquo;のことに触れ、&ldquo;原&rdquo;とは&ldquo;再&rdquo;の意味だと記されていた。要するに原蚕とは一年に２度繭を作ることだと知った。そして又、「檿桑とは山桑をいう、桑に似ており、材は弓、車轅(しゃえん)を作るに適す」とも記されていた。
</p>
<p>
『斉民要術』の著された後魏（北魏）は鮮卑族の国であったが「秦琴の歴史」でも書いたように、この時代には直頸円体胴の漢式琵琶が流行っていた。この柘葉で飼われた蚕の糸は琴や瑟ばかりでなくもちろんそれらの琵琶にも張られていたのであろう。
</p>
<p>
そして又、明・朱権の『太音大全』巻一の&ldquo;辨絲法&bdquo;には前記の記述に続いて少し興味深いことが記されているので取り上げてみたい。
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-family: MS Gothic">&hellip;&hellip;今只用白色柘絲為上原蚕次之非此二絲則擇其生繰者塩蔵繭者不堪用</span></span>
</p>
<p>
【柘絲は原蚕よりも上等なので今は只柘絲しか用いない。そしてこの二種類の糸は必ず生繰のものを択ぶ。塩蔵のものは用いるに堪えない。】
</p>
<p>
そして少し小さな文字で&ldquo;次の様にも記されていた。
</p>
<p>
【今の人は繭を蔵するのに多くは塩を用いる。これは糸の性質を常に保ち交易をするためである。この糸で作った絃を用いると丁寧に弾いても切れ易く、雨にあえばすなわちすぐに湿り鳴らなくなる。塩の性質が残っているからだ。市場で絃を売る者はほとんどがこの糸を使っている。絃の為には手間ひまを惜しんではいけない。このことを知れば絃は自分で作らなければならない。】
</p>
<p>
ここに記された&ldquo;生繰り&rdquo;というものは要するに繭の中で蚕が生きたままの状態で糸をほぐして繰るということである。又、塩蔵というのは塩の浸透圧を利用して(？）繭を乾燥させることなく長く保存することだが、もちろん中の蚕はこの時点で死んでしまう。(仮死状態かもしれないが現在の日本ではこの塩蔵繭は少し高級な繭のようである。）絃を作るには塩蔵繭の糸ではなく生繰りの糸でなければならないといっている。ところで、実は今日の日本の絹絃の原糸はすべてこの&ldquo;生繰り&rdquo;で繰られている。これが一番ねばりのある絃を作る訳だが、この記述をみるとすくなくとも６００年程前の明代にすでにこの生繰りが良しとされ、実際に行われていたことが知れる。当然この&ldquo;生繰り&rdquo;の伝統はそれ以前からあったものであろうが、この記述をみると生繰りの絃とそうでない塩蔵繭の絃とが混在していた様である。
</p>
<p align="center">
<span style="font-family: MS Gothic">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/taionntaizen1.jpg" alt="" width="150" height="438" />
&nbsp;&nbsp;
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/taion-ss.jpg" alt="" width="175" height="438" />
</span>
</p>
<p align="center">
<span style="font-size: 80%"><span style="font-family: MS Gothic">『太音大全』巻一：辨絲法　（国会図書館蔵・北平図書館善本マイクロ）</span></span>
</p>
<p align="center">
&nbsp;
</p>
<p>
今のところ&ldquo;生繰り&rdquo;の記述はこの明・朱権の「太音大全」にしか見つけられないが、もしかしたら１０００年以上前からその様であったかもしれない。漢の時代の「楽府」（音楽を司る役所）には縄絃工(じょうげんこう)なる職もあり、前記の檿絲を&ldquo;生繰り&rdquo;で繰り絃を作っていたかもしれないし、もしかしたら絹絃が登場した周代からすでにこの&ldquo;生繰り&rdquo;であった可能性もあるが、当然ながら確認する術(すべ)がない。
</p>
<p>
しかし残念ながらこの伝統的な絹絃製造法は今日の中国ではあまりみられなくなってしまった。現在の日本で行われている絹絃製造法は、日本に朝鮮半島経由で養蚕が伝わった時期に一緒に伝わり脈々と伝承されてきたものなのか、又後世に楽器の絃として別に伝わったものであるかは検証する必要があろうかと思うが、この絹絃製造法の伝統は今日の日本に確かに受け継がれ、それは奈良「正倉院」の琴絃の残闕などにすでにみることができ、【只この絃がいつの時代のもので、又 &ldquo;生繰り&rdquo;で繰られた柘絲(しゃし)であるかどうかは判かりようがないし、日本で作られたものなのか、又は中国から持ち込まれた物なのかは確認ができていないようである。】現在でも生繰りで繰られた絹絃が様々な楽器に用いられている訳である。只、残念なことに今の箏は殆どが絹絃ではなくなっている。
</p>
<p>
<span style="font-size: 130%; font-family: MS Gothic">追補</span>ー現在の中国では、政府の支持によって「蘇州民族楽器厰」で古琴の絹絃の製造が始まりそこで購入できるということである。
</p>
<p>
次回は、この他に絃のことが記されている書物や文章等をいくらか取り上げてそれに纏わる話しをしてみたい。
</p>
<p>
<a href="/shinkin/silkstrings/sono2/">＜その二 ＞に</a>
</p>  -->
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【秦琴の歴史】隋・唐時代</title>
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   <published>2007-10-30T06:05:39Z</published>
   <updated>2009-09-02T01:52:52Z</updated>
   
   <summary> ページをリニューアルいたしました。こちらからご覧ください。 隋・唐時代 隋・唐...</summary>
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      <![CDATA[<p>
ページをリニューアルいたしました。<a href="http://akifukakusa.com/shinkin_new/history.html">こちらからご覧ください。</a>
</p>
<!--
<h3>隋・唐時代</h3>
<p class="img_R">
隋・唐時代<a href="http://akifukakusa.com/shinkin/pdf/history04.pdf" target="_blank">
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</a>
</p>
<p class="clear">
&nbsp;
</p>
<p>
<img class="img_R" src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/biwa.jpg" alt="秦琵琶もしくは秦漢子" title="秦琵琶もしくは秦漢子" width="80" height="96" />
</p>
<p>
このように六朝時代大いに流行したこの琵琶は隋・唐時代になると&ldquo;秦琵琶&rdquo;とも総称され、隋・唐当時のものは「秦漢子（しんかんし）」と呼ばれるようになり、中国の独自色が強い清楽（清商楽）と言われる音楽に用いられていた。
</p>
<p>
『隋書』巻十五 志十 音楽下 には次の様な記述がある。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">清楽其始即清商三調是也並 漢来舊曲 楽器形制并歌章古辭 與魏三祖所作者皆被於史籍・・・・其楽器有鐘 磬 琴 瑟 撃琴<span style="color: #ff0000">琵琶</span>箜篌 筑 箏 節鼓 笙 笛 蕭 篪 塤 等十五種為一部工二十五人</span>
</p>
<p>
この琵琶について『唐書』巻22によれば、次のようにも記されている。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">初隋有法曲其音清而近雅其器有鐃鈸 鍾 磬 幢簫 琵琶 琵琶圓體修頸而小号日<i>秦漢子</i>蓋弦鼗之遺製 出於胡中伝為秦漢所作・・</span>
</p>
<p>
【隋のはじめには法曲があった。その音樂は清らかで雅楽に近い。楽器は 鐃、鈸、鍾、磬、幢簫 、琵琶を用いる。琵琶は胴体が円形で棹は真っ直ぐ付いており少し小さく秦漢子と呼ばれていた。思うに絃鼗の遺制か。胡中から秦代に伝わり漢代に作られた。】
</p>
<p>
また、前記『通典』(巻百四十四）、そして『舊唐書』(志巻九音楽二）にも同じく次のように記されている。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">今清楽奏琵琶（※1）俗謂之<i>秦漢子</i>円体修頸而小疑是弦鼗（※2）之遺制傅玄云体円柄直柱有十二其他皆充上鋭下・・</span>
</p>
<p>
【いま清樂は琵琶を用いる。俗に秦漢子と謂れ、丸い胴体に棹は真っ直ぐ付いており少し小さい。疑ごうらくはこれは絃鼗の遺制か。傅玄も、円体胴に真っ直ぐな棹、そして十二の柱が付いていると言っている。その他のものは皆洋梨型をしている。（？）】
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%"><span style="font-size: 80%"><span style="font-size: 90%">※1―『旧唐書』、『文献通考』では&ldquo;奏琵琶（そうびわ）&rdquo;になっているが、岸辺成雄氏は&ldquo;秦琵琶（しんびわ）&rdquo;の誤りであろうとされている。清・『淵鑑類函』は&ldquo;秦琵琶（しんびわ）&rdquo;となっている。<br />
※2―この弦鼗（げんとう）の&ldquo;弦&rdquo;は書物によって&ldquo;絃&rdquo;になったりするが、以後は&ldquo;絃&rdquo;に統一して記述する。</span></span></span>
</p>
<p>
『新唐書』は北宋・欧陽脩(1007~1072)等の奉勅撰であるが、これをそのまま信ずれば隋の時代から「秦漢子」なる楽器があり、『通典』に依ればおおよそ大暦(766~ 779)あたりでも使われていたことになる。この「秦漢子」なる楽器は六朝時代に流行った琵琶と同系統であることは明らかであると思うが、もう一つ、ここに「絃鼗（げんとう）」という記述があり、「秦漢子」はこの「絃鼗」の遺制であると記されている。これはすなわち漢代、に興ったとされている（このことは定かではないと思われるが）前記、漢式型の琵琶のそのまた源流に「絃鼗」なるものがあると言うことである。
</p>
<p>
ここで少し「絃鼗」について話をしたい。この「絃鼗」に関しての記述は、魏の杜摯（ドゥジまたはトシ）の言として様々な書物に現れている。
</p>
<p>
例えば『宋書』(梁の沈約・488年完成）巻19の琵琶についての一節には、傅玄の「琵琶賦」と『風俗通儀』に触れた後に、
</p>
<p>
&nbsp;<span style="font-family: MS Gothic">・・杜摯云長城之役<span style="color: #ff0000">絃鼗</span>而鼓之並未詳執實其器不列四廂</span>
</p>
<p>
【杜摯が謂うには&ldquo;長城の役で人々は絃鼗を弾いていた&rdquo;。これらは（傅玄琵琶賦、風俗通儀、杜摯）どちらが本当なのか未だはっきりしていない。この琵琶は朝会燕饗の楽歌には用いられていない。】 と記され、
</p>
<p>
また、南朝、陳（557&minus;589）の釈智匠（しゃくちしょう）の『古今楽録（ここんがくろく）』には次のようにも記されている。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">琵琶出於<span style="color: #ff0000">絃鼗</span>杜摯以為興之秦末蓋苦長城役百姓絃鼗而鼓</span>（『古今楽録』は現存しておらず『初学記』巻16からのもの）
</p>
<p>
【琵琶は絃鼗から発展した。杜摯は秦末に興ったとしている。思うに長城の役で苦しんだ農民達が絃鼗を弾いていたのである。】
</p>
<p>
そして前記「通典」（明・李元陽校本）にも同じく次のように記されている。【これは上記
『宋書』からの引用であろうが】
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">・・杜摯曰秦苦長城之役百姓<span style="color: #ff0000">絃鼗</span>而鼓之並未詳執實其器不列四廂・・</span>（苦が若、役が設になっているが誤りであろう）
</p>
<p>
これらは皆【秦末、長城の役に苦しんだ人々が&ldquo;鼗&rdquo;に弦を張って、演奏して慰めにした】という主旨のものである。
</p>
<p>
&ldquo;鼗&rdquo;は周の時代&ldquo;播鼗&rdquo;と言われた、いわゆる振りつづみ（要はデンデン太鼓の少し大きなもの）。太鼓の部分を胴体にみたて、柄を棹にして弦を張った初期的な絃楽器が秦の時代に現われ、『古今楽録』ではそれが当時の琵琶（漢式）の源流であると言っている。
</p>
<p>
また、唐・徐堅（じょけん）(659ー729)の『初学記（しょがっき）』巻16や宋・李昉（りほう）(925ー996)の『文苑英華（ぶんえんえいが）』巻71に収められている隋・虞世南(558ー638)の「琵琶賦」にも次のように記されている。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">・・・尋斯楽之所始乃<span style="color: #ff0000">絃鼗</span>之遺事強秦創其濫觸</span>
</p>
<p>
【・・この琵琶の始まるところを尋ねれば乃ち絃鼗の遺事である。それは秦の時代から始まっている。】
</p>
<p>
ここでもまた、琵琶（漢式）は「絃鼗」の遺事で秦から始まったとしている。（強秦創其濫觸【濫觴（らんしょう）物事のおこり】
</p>
<p>
そして後記するが、唐・宋・八大家に数えられている唐の柳宗元（りゅうそうげん）の『絃子記（げんしき）』の「三絃」の条にも次のようにある。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">・・漢世胡部習之廣其月體増一絃以象四時則<span style="color: #ff0000">絃鼗</span>之窕・・</span>
</p>
<p>
【漢の時、胡部の音楽をする者は之を習った。その( 絃鼗）の丸い胴を広くし一絃加えら四つの季節を象った。則ち絃鼗が改良されたものである。（&ldquo;絃鼗之窕&rdquo;は絃鼗が改良されたということであろうか）】
</p>
<p>
そしてまた、唐の白居易も『白氏六帖事類集（はくしりくじょうじるいしゅう）』（約830年頃成書）巻18の琵琶の条で『古今楽録』を引用して、琵琶は絃鼗から出ているとしている。
</p>
<p>
このように六朝時代から唐代にかけて様々な書物で琵琶（漢式）は「絃鼗」から発展してきたと言っているが、その「絃鼗」はいかなるものなのかは、おおよそのイメージはできるが、あまりはっきりしない。
</p>
<p>
「絃鼗」の形体についての多少の具体的な記述がある書物は、思うにおそらくこの一書しかないであろう。それは唐・柳宗元の『絃子記』である。前記した記述の前に次のような「絃鼗」に関しての記述がある。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">周楽器設播鼗職業所及制用絲結為縄如貫珠垂雙耳揺之還撃其面以成音協於鼉鼓之節自周失職武入於漢至秦末改此器引絲而長之以為絃加一以象川義棅出其上如繭之吐絲去鼗革代以蛇腹象仰盂承槩名日<span style="color: #ff0000">絃鼗</span></span>
</p>
<p>
大意
</p>
<p>
【周の楽器では播鼗は職業とされていた。その様態は、糸を結んで縄状にして、そこに玉を通したものを両耳が垂れたようする。それを揺らし、鼓面を撃ち、音を出して鼉鼓（だこ）と一緒に音楽の節目に合わせて演奏された。（周以後戦乱のためになくなり、漢にまた用いられた。）秦末にこの器が変化し、糸を長く引いて、おそらく一絃加えられ、川の意味を象どり、柄（棅）の上に、繭から糸が引き出されるように張られた。胴は革の代わりに蛇の腹の皮を用い、丸い鉢を仰いで受けるような形である。そして細いバチを用いてかき鳴らす（槩）。これを絃鼗という。】
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">追記ー「<span style="font-family: MS Gothic">自周失職武入於漢」の上記の訳は私の全くの誤訳で、『論語』巻九微子十八に記され、陳暘『樂書』巻八十五、九十に記されてある様に【周末に禮楽が壊れ</span>播鼗の職の武が漢水の地に行ってしまった為に失われてしまった】ということです。</span>
</p>
<p>
<img class="img_R" src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/gentou.jpg" alt="絃鼗" title="絃鼗" width="65" height="137" />
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
このようなものであるが、もしこれが本当だとしたらおそらく&rdquo;柱&rdquo;はついていなかったのであろう。
</p>
<p>
【ちなみにこの「絃鼗」は胡弓系の楽器の源流とされることもあるし（『事物紀原』宋：高承&rdquo;嵇琴&rdquo;の条）、また清初の学者でもある毛希齢（もうきれい）は、その著書『西河詞話（せいかしわ）』の中で&ldquo;三絃&rdquo;（現在の&ldquo;三絃&rdquo;と同じもの）の源流であるとまで言っている。しかし、この説には何の根拠もないであろう。】
</p>
<p>
しかし、この記述は柳宗元がいかなる書物を引用もしくは参考にして著したかまったくわからない。唐・宋八大家（とうそうはちたいか）と言われる柳宗元は唐の大暦8年（773年）に生まれ、元和14年（819年）に没している。秦末からすでにおよそ1000年の時が経ているので、前記傅玄「琵琶賦」の烏孫公主の話のように俄かには信じられないが、柳宗元の時代からすでにまた、1200年の時が経ている私たちは、なんとなく信ずるよりしかたがないのかもしれないが。
</p>
<p>
とにかく、このような「絃鼗」から発展して漢式琵琶たる「秦漢子」になったというわけであるが、しかし、このことも確たる証拠は今のところのないようである。中国の学者の中では「絃鼗」源流説を取る人も多いが、そもそも「絃鼗」なるものが秦の時代に本当に存在していたかどうかも定かではないように思われるのである。秦の時代から千年程経た唐・段安節の『楽府雑録』の鼓吹部の条に「絃鼗」なる記述が確かにあるが、千年の時を隔てたこの「絃鼗」をして秦代の「絃鼗」の存在証明をするのは難しいし、同じ楽器を意味しているとも思えない。
</p>
<p>
現代の中国、日本の学者の多くの文章には「柳宗元の三絃」の話しを見つけることが出来ないが、「絃鼗」を鼗鼓からの変形と考えるのは同じで、前記宋：高承の『事物紀原』にも同じ様なことが記されている。只「絃鼗」を三絃の楽器としているものが多いが、何故三絃としているのか良く判らない所がある。「絃鼗」が鼗鼓から出来たものだとすれば当然二絃であるのが自然であろう。楽器の絃数が増えるということはかなり高度な音楽的要求がなければならない。農民が弾いていたこの「絃鼗」を三絃としているのがどうも解せない。「絃鼗」の記述が最初に現れるのが上記『宋書』(梁の沈約・488年完成）に記され三国・魏の<span style="font-family: MS Gothic">杜摯</span>の文章であるが、この『宋書』編纂の当時ですら<span style="font-family: MS Gothic">杜摯</span>のこの文章の全文が残っていたかどうかも定かではないし、勿論三絃とも記されていない。
</p>
<p>
秦の時代から400年以上の時が経ている魏の杜摯がいかなる書物を参考にして「絃鼗」と言い出したのか判りようが無いし、<span style="font-family: MS Gothic">杜摯の時代にこの様な楽器を</span>「絃鼗」と言っていたのか、それとも秦代に「絃鼗」と呼ばれていたことを書物を通して<span style="font-family: MS Gothic">杜摯が知ったのか、それも判らないので</span><span style="font-family: MS Gothic">杜摯の造語とも考えられるが、</span>多くの古の官吏学者達がただこの一文を引用して様々な論述をしている様に思える。柳宗元などは三絃でしかも蛇の腹の皮とまでいっているが、勿論秦・漢代の書物の中に「絃鼗」のことが明記されているものは一書もないと思われる。もしかしたら唐代までは「絃鼗」に関する文献が存在していたのかもしれないが余りにも其の痕跡が無さ過ぎる。
</p>
<p>
秦・漢の時代前後にエジプトのネフェルのような楽器が伝わり、当時中国の鼗鼓を逆さまにして絃を張った様な形だったので、いつのまにか「絃鼗」【鼗に絃する、というような】と呼ぶ様になったのかもしれないが、この存在の不確かな「絃鼗」を漢式型琵琶の源流に於くのは少し無理がある様に思われる。しかし現在のところ「烏孫公主」のような伝説的な話はともかく、漢式琵琶はその源流を中国国内に求めるのが通説になっているが。
</p>
<p>
また前記したシルクロード西域のいくつかの事例の中には、当時中国文化の影響をあまり受けていないものもあり、漢式琵琶の源流をイランあたりに求めることができるかもしれないと言うことであるが、これもまた結論が出ていない。
</p>
<p>
この漢式琵琶が&ldquo;絃鼗発展説&rdquo;のように漢人の手によって創られたものなのか、あるいは、やはり西域から伝わった楽器にその源流を持つものなのかは、今のところ謎のままなのである。
</p>
<p>
「絃鼗」に関して最後に、中国に於いて最も早い時期の 「絃鼗」の図像として四川音楽学院出版の『音楽探索』に高文氏が提出された漢代の画像磚を取り上げてみたい。
</p>
<p>
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/gentoubig.jpg" alt="" width="401" height="367" />
</p>
<p>
<span style="font-size: 110%"><span style="font-family: MS Gothic">四川音楽学院出版『音楽探索』1998年第2期(16〜17頁）作者 高文「我国最早的絃鼗図像」より引用しました。</span></span>
</p>
<p>
右の一人が竽を吹き、左の一人が瑟を弾き、真ん中の人が弾いているのが「絃鼗」ということらしい。軫が三つに見えるのでここから「絃鼗」三絃説が出たのかもしれないが、漢代のものなので中国中央音楽学院の鄭祖襄氏は秦代の「絃鼗」から漢式型琵琶になる過渡期の楽器の可能性もあるとされているが、推量の領域を出ない。
</p>
<p>
このように漢代に現われた、もしくは伝わったであろう【漢代のものは洋梨型かもしれないが】とされている円形の胴体に&ldquo;柱&rdquo;の付いた直頸の棹を持つこの種の絃楽器は、三絃や四絃、もしくはその大きさや形を少しづつ変えながらも、西域一帯や中国本土に広く伝わり、【２００６年に泉州の安南市豊州鎭皇冠山で２８の墓が発掘され、「太元三年(378年）」と刻まれた煉瓦とともに三絃や四絃の漢式琵琶の文様が彫刻されていた煉瓦も発見されているので、確かに東晋時代すでに南方まで伝わっていた。王蓮茂氏のレポート＜泉州の古典音楽と、伝統劇及びその海外への普及＞、もしくは『収蔵快報』２００８年第三期、陳建中、金光仁＜古楽器&ldquo;阮咸&rdquo;与音楽珍品&ldquo;南音&rdquo;＞を参照されたし。】中国本土において伝承されてきたものは琵琶と呼ばれていた。そして、隋・唐代になると「秦漢子」とも号され、清楽と言われる音楽の演奏に用いられてきた。
</p>
<p align="left">
&nbsp;
</p>
<p align="left">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/syuuzou1.jpg" alt="" width="130" height="332" />
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/syuuzou2.jpg" alt="" width="130" height="374" />
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/syuuzou3.jpg" alt="" width="130" height="354" />
</p>
<p align="left">
&nbsp;
</p>
<div align="left">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/syuuzou5.jpg" alt="" width="130" height="331" />
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/syuuzou4.jpg" alt="" width="130" height="360" />
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/syuuzou7.jpg" alt="" width="130" height="243" />
</div>
<div align="left">
&nbsp;
</div>
<div align="center">
<span style="font-size: 120%"><span style="font-size: 80%">２００６年に泉州の安南市豊州鎭皇冠山の東晋代古墓で発掘された漢式琵琶の文様の煉瓦）</span><br />
&nbsp;</span>
</div>
<div align="center">
<span style="font-size: 120%"><span style="font-size: 100%">『収蔵快報』2008年弟三期より</span></span><br />
</div>
<div align="left">
&nbsp;
</div>
<div align="left">
&nbsp;<span style="font-size: 120%">しかし、例えば龍門の石窟寺に彫られたさまざまな楽器の数を見てみると、唐代に下るにしたがって、いわゆる曲頸（きょっけい）と言われた「四絃曲頸琵琶」の事例が増え、この漢式系の琵琶の事例が減ってきているように唐代の胡楽全盛の中で琵琶と言えば「四絃曲頸琵琶」を指すようになり、中国の独自色が強い清楽（清商楽）の演奏に用いられてきた「秦漢子」なるこの琵琶は、その形体をひとまわり大きく改良され「阮咸（げんかん）」と命名された新楽器に変化してゆく。</span>
</div>
<div align="center">
</div>
<div align="center">
<div align="left">
</div>
</div>
<div align="center">
</div>
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</div>
<div align="center">
</div>
<div align="center">
</div>
<div align="left">
</div>
<div align="center">
</div>
<div align="center">
</div>
<p>
しかしこの「阮咸」も又、実は誰に依って、どのようにして作られ、又いかにして阮咸と命名されたか、そのいきさつ等については、実際の所どれも確実には判っていないのである。
</p>
<p>
阮咸の名の由来は、周知のように&ldquo;竹林の七賢&rdquo;の一人、阮咸から取ったものだが、そのいきさつについては『国史異纂（こくしいさん）』、『隋唐嘉話（ずいとうかわ）』『通典（つてん）』、『資暇集（しかしゅう）』、新、舊『唐書（とうじょ）』等に凡そ同じようなことが記されている。
</p>
<p>
『通典』（上海図書集成局遵武英殿聚珍版校印・光緒27年）には次のように記されている。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">阮咸亦秦琵琶也而項長過於今制列十有三柱武太后時蜀人蒯郎於古墓中得之晋竹林七賢図阮咸所弾与此類同因謂之阮咸咸世実以善琵琶知音律称【蒯郎初得銅者時莫有識之太常少卿元行沖日此阮咸所造乃令匠人改以木為之聲甚清雅】</span>
</p>
<p>
大意
</p>
<p>
「阮咸はまた秦琵琶でもある【形体が秦琵琶と同じという意味であろうか】。棹は秦琵琶より長く、&rdquo;柱&rdquo;（フレット）は13個ついている。武太后時（684～704年）蜀（しょく）の人、蒯郎（かいろう）が古墓でこれを見つけ、晋の時代の竹林の七賢人の一人阮咸の弾いていた楽器と同じ類だったのでこれを阮咸といった。阮咸は当時琵琶を好み、音楽を知る人としてたたえられていた。【蒯郎（かいろう）が初め銅で出来た物を見つけたが（墓の副葬品であろう）当時は之がなんであるか判る者がいなかった。その後、太常少卿であった元行沖（げんこうちゅう）がこれは阮咸の作った楽器であるといい、職人に命じて木で作り直させたところ、とても清雅な音がした】」
</p>
<p>
又、北宋・李昉の『太平広記』（978年成書）の巻二百三、樂一、には『国史異纂』からとして次の一条が収められている。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">元行沖賓客為太常少卿時　有人於古墓中得銅物似琵琶而身生圓　莫有識者　元視之日　此阮咸所造樂也　乃令匠人改以木　為聲清雅　今呼為阮咸者是也</span>
</p>
<p>
【 元行沖賓客が太常少卿であった時、ある人が古墓で、銅で出来ていて琵琶に似ているが胴体が円形の物を見つけた。これが何であるか判る者がいなかったが、元行沖が之を見て、これは阮咸が造った楽器であると言い、匠に命じて木でこれを作り直させた所清雅な音がした。今阮咸と呼んでいる物は是である。】
</p>
<p>
というようなことである。年代的に見ると『通典』の後半の【】内の記述はどうもこの『国史異纂』からの引用と思われるが、この元行沖の&rdquo;阮咸命名話し&rdquo;の方が後に広まり、「唐書」巻200列伝第125の「元澹（げんたん）字・行沖伝」にも取り上げられてしまっている。
</p>
<p>
そしてもう一つ唐・盧言の『盧氏雜説』のことにも触れておきたい。この『盧氏雜説』はあまり取り上げられていないが、そこに記されている「阮咸命名話し」は上記の&ldquo;元行沖&rdquo;の話しとは少し違っている。
</p>
<p>
この著者である盧言の詳しい生没は判らないが、文宗の開成二年(837年)には已に員外郎の職に就いており、大中二年(848年)には大理卿の職を已に任ぜられているので、盧言の仕官年代はおよそ穆宗から宣宗の時期位になるそうである。この盧言についての詳しいことは周勛初氏の『盧言考』を参照されたい。【上海の学術月刊社「学術月刊」1987年四月号51~53頁】<br />
それによればこの『盧氏雜説』は現在では全文が伝わっておらず、前記北宋・李昉の『太平広記』に最も多く、六十六条が収録されているが、『紺珠集』『類説』『説郛』には一巻と記されている。他に『玉泉子』には十一条程の文章に、『盧氏雜説』からの引用と思われる文章が混ざっている。
</p>
<p>
しかしこの「阮咸」の話しは『盧氏雜説一巻』には取り上げらておらず、また『玉泉子』にも見当たらないので、『太平広記』に収録されている六十六条中にしか見い出すことが出来ないが、そこには前記『国史異纂』からの一条の次に以下の様に記されている。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">晋書稱阮咸善弾琵琶　後有發咸墓者　得琵琶　以瓦為之　時人不識　以為於咸墓中所得　因名阮咸　近有能者不少　以琴合調　多同之</span>
</p>
<p>
【晋書には阮咸は琵琶を善くしたと讃えてある。後になり咸の墓を暴く者があり、瓦で作られた琵琶を得た。その時の人々は之が何か判らなかったが、おそらく、咸の墓から出てきた物ということで阮咸と名付けたのである。今では之を上手く弾く者は少なくない。琴を以て調を合わせるが大体琴と同じ様な感じである。？（よく他の楽器と合奏することがある？）】
</p>
<p>
この様に記されている。
</p>
<p>
年代的には『国史異纂』の記述が一番古いのだが、【この『国史異纂』は後記するように、
唐の天宝年間に在世した劉餗の著した『伝記』なのである。】盧言がもし『通典』なり『伝記』なりの書物を知っていたとしたら、銅器なる物を見つけた蒯郎の話しも、元行沖の話しもまったく信用していなかったということになるのだが。
</p>
<p>
阮咸という楽器が現れてから、これらの書物が著された時代までは、たかだか百年位しか経っていないのに、何故このように記述が異なっているのか良く判らないところがある。
</p>
<p>
とにかく阮咸が現れた当時は、前記したように秦琵琶、秦漢子なる漢式型の琵琶があったわけで、『国史異纂』等言うように誰もまったくこの種の楽器を知らなかったというのもあまり信用出来ない。当時秦琵琶から改良された新楽器が、このような棹の楽器を愛好していた竹林の七賢人の一人、阮咸にちなんで「阮咸」と命名されたわけだが、その命名の由来をもっともらしくするために、後になって様々な人によってこの様な話しが付会されと考えるのが一番合理的であろうか。
</p>
<p>
しかしどのみち阮咸という楽器が誰に依って作られ、どのようにして世の中に現れてきたのかは、書物に依っての言い伝え以外には判らないのである。
</p>
<p>
又、この阮咸の命名に関して、唐末・李済翁（りさいおう）【または李匡乂(りきょうがい】の『資暇集（しかしゅう）』には少し興味深いことが記されている。
</p>
<p>
つまり唐の大暦中（766～779年）にこの「阮咸命名話し」の作り話が作られ（これはもしかしたら前記した『国史異纂』もしくは『通典』のことかもしれない。この阮咸命名話しが最初に現われるのがこれらの書物とおもわれる。）、そして再び司徒の汧公（けんこう）―李勉：李崖州―によって言いふらされたようなことが記されている。<br />
そして、楽器を人の名でもって呼ぶべきではないし、ましてや阮咸は昔の賢者ではないかと言って、その形が月に似て、その音が琴に似ているため、「月琴（げっきん）」と呼ぶのが宣しいとしている。
</p>
<p>
後世、さまざまな書物にこの楽器を「月琴」と呼んでいるのは、この李済翁から始まっているようである。
</p>
<p>
またこの命名話しの主人公にされてしまった太常少卿である元行沖は、その出身が異民族である拓跋鮮卑族（たくばつせんぴぞく）である。かつて彼らの民族が支配していた北魏にこの楽器が流行っていたということが、もしかしたら関係があるのかもしれないが。
</p>
<p>
しかし、例えば日本『和名類聚抄（わみょうるいじゅうしょう）』源順（みなもとのしたごう）承平間　(931～937年)、&nbsp;&nbsp;&nbsp; 『新唐書（しんとうじょ）』宋・欧陽脩（おうようしゅう）(1007&minus;1072)、&nbsp; 『事物紀原（じぶつきげん）』宋・高承（こうしょう）、 『楽書（がくしょ）』宋・陳暘（ちんよう）、『事原（じげん）』宋・劉孝孫（りゅうこうそん）、 『文献通考（ぶんけんつうこう）』南宋・馬端臨（ばたんりん）等々、また後世のさまざまな書物に晋の阮咸がこの楽器を造ったと記されているが、もちろん晋の当時は琵琶と呼ばれていたこの絃楽器を阮咸本人が作ったのでは当然ないわけである。
</p>
<!--
<p class="img_L">
<img src="http://akifukakusa.com/shinkin/photo/kuwanokinogenkan.jpg" alt="正倉院御物桑木阮咸" title="正倉院御物桑木阮咸" width="120" height="300">
<br>
正倉院御物桑木阮咸
</p>
-->
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【秦琴の歴史】六朝時代</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://akifukakusa.com/shinkin/2007/10/post_8.html" />
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   <published>2007-10-30T00:47:17Z</published>
   <updated>2009-03-20T13:06:52Z</updated>
   
   <summary>ページをリニューアルいたしました。こちらからご覧ください。 六朝時代 六朝時代 ...</summary>
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         <category term="1030六朝時代" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://akifukakusa.com/shinkin/">
      <![CDATA[<p>ページをリニューアルいたしました。<a href="http://akifukakusa.com/shinkin_new/history.html">こちらからご覧ください。</a></p>
<!--
<h3 align="left">六朝時代</h3>

<p class="img_R">
六朝時代<a href="http://akifukakusa.com/shinkin/pdf/history03.pdf" target="_blank">
<img class="none" src="http://akifukakusa.com/shinkin/image/print.gif" alt="印刷用ＰＤＦファイル" title="印刷用ＰＤＦファイル" width="55" height="20" />
</a>
</p>
<p class="clear">

<p>
傅玄の『琵琶賦』を信ずれば、直頸の柄に柱がついた円体胴の琵琶(批把）が漢代に現れた訳であるが前記した様に書物の記述にも疑問が残るし、実際の事例も今の所無いようである。
</p>
<p>
この漢式琵琶の事例が多く現れてくるのは、少し時代が下って3～4世紀の魏・晋代になってからである。亀茲（きじ）の遺趾のキジル石窟の壁画や、またスタインによって新疆省（しんきょうしょう）の天山南路ニャー遺跡から発見されたリュートの破片、(円体胴ではないかもしれないが）また敦煌莫高窟（とんこうばっこうくつ）の壁画や嘉峪関酒泉魏晋墓壁画（かよくかんしゅせんぎしんぼへきが）等、西域各地にこの種の楽器の痕跡や壁画の事例が多く現れてくる。
</p>
<p>
【その古墓（3～5世紀）の壁画に、四絃もしくは三絃の円形または少し梨形になっている胴体をもつ直頸の弦楽器の図が多く見られる酒泉の嘉峪関あたりは、秦、漢以前は月支国や烏孫があった地域で、前記傅玄「琵琶賦」の烏孫公主の話を考え合わせると、何か不思議な感じがしてくる。もしかしたら烏孫公主であった劉細君がこの地にこの種の楽器を伝えたのかもしれないし、反対にこの地方から伝わったものをあたかも漢人がその以前に伝えたかのごとく、烏孫公主の話を付会したのかもしれない。】
</p>
<div align="center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/kayokukan3.jpg" alt="" width="160" height="136" />
&nbsp; &nbsp;&nbsp;
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/kayokukan1.jpg" alt="" width="160" height="149" />
</div>
<p align="center">
&nbsp;
六号墓　　　　　　　　　　　　一号墓
</p>
<div align="left">
<div align="center">
</div>
</div>
<p align="center">
&nbsp;
&nbsp;
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/kayokukan2.jpg" alt="" width="160" height="158" />
&nbsp; &nbsp;
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/kayokukan4.jpg" alt="" width="160" height="170" />
</p>
<p align="center">
四号墓　　　　　　　　　　　　七号墓
</p>
<br />
<div align="center">
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 90%">（甘粛人民芸術出版社・嘉峪関酒泉魏晋十六国墓壁画より）</span></span>
</div>
<p>
中国国内では例えば傅玄はその「歌詩」の中で琴や瑟よりこの琵琶を好むと言い、晋・裴啓（はいけい）の『語林』に記された琵琶も、晋・嵆康（けいこう）の『声無哀楽』に出てくる琵琶も、晋・孫該（そんがい）の「琵琶賦」も、そしてまた六朝宋・劉義慶の『幽明録（ゆうめいろく）』『世説新語（せせつしんご）」』に記された琵琶も、前蜀・杜光庭（とこうてい）『録異伝（ろくいでん）』に記された琵琶も、皆この漢式型の琵琶であり、周知のように阮咸もこの楽器を好んで弾じていた。
</p>
<p>
そしてこの晋代の琵琶の形体に関して前記漢代の琵琶に少し付け加えることができる記述が、晋・成公綏（せいこうすい）(231ー273)の「琵琶賦」の中にある。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">盤図合霊太極形也・・分柱列位歳数成也・・</span>
</p>
<p>
これは円体形の胴に&ldquo;柱&rdquo;が歳数（12個であろうか）、あると言うもので前記傅玄と同じだが、下記のような記述もある。
</p>
<img class="none" src="http://akifukakusa.com/shinkin/image/text01.gif" alt="・・・物有容制惟此琵琶興自末世爾乃託巧班輸如意横施因形造美洪殺得宜柄如翠虬之仰首盤似霊亀之觜・・・・" width="470" height="55" />
<p>
【物には形と制がある（その容姿の訳がある）。惟うにこの琵琶は末世（道がすたれた時代）に創られたものではないだろうか。すなわち如意※をたくみに取り入れ託した。そしてそれを横にして形を美しくすれば（？）、棹は翠虬※が首をもたげたようだ。そして円体の胴は聖なる亀の突き出た口元に似ている。(？）】（亀の突き出た口元って丸いのかな？）
</p>
<p>
「盤似霊龜之・・・」は、&ldquo;突き出た口元 &rdquo;としたがよく判らない。唐・徐堅の『初学記』また清・聖祖奉勅撰『淵鑑類函』等では、「盤似霊龜之觜[＊]」と記されている。【[＊]は虫へんに嶲　觜と二字でシケイ・ウミガメのこと】所謂「円体形は聖なるウミガメに似ている」と云うことであろうが、ウミガメの形そのものに喩えたこちらの方が納得がいく。上記の文章は唐・欧陽詢の『藝文類聚』から採ったものだが。
</p>
<p>
<img class="img_R" src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/nyoi.jpg" alt="如意" title="如意" width="80" height="130" />
</p>
<p>
<span style="font-size: 80%">※如意（図参照）―道教の僧が持つ道具でこれを振るとなんでも出てくるというもの。ただこの&ldquo;如意&ldquo;の文字は&ldquo;妙意&rdquo;となっている書物もある。（『初学記』等）　そうなると 少し意味が違ってくるが&ldquo;翠虬之仰首&rdquo;とあるので&ldquo;如意&rdquo;のことのような気がするが。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: 80%">※翠虬（すいきゅう）―伝説上の角のある翡翠色の小さな龍</span>
</p>
<p>
これはなかなか興味深いもので、近世秦琴の棹頭が如意状になっているのは、すでにこのころから始まっていたのかもしれない。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p align="center">
&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/geimonn.jpg" alt="" width="165" height="346" />
&nbsp;&nbsp;&nbsp;
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/geimon-s2.jpg" alt="" width="144" height="348" />
</p>
<p align="center">
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 80%">明・王元貞、校『藝文類聚』巻四十四所収、晋成公綏「琵琶賦」　 国会図書館所蔵より</span></span>
</p>
<p align="center">
&nbsp;
</p>
<p>
又、孫該（？ー261)の「琵琶賦」には　【惟素桐（嘉桐と記すものもある）之竒生于丹澤之北】ともあるので此の頃から胴体の腹板には桐が使われていたのであろう。
</p>
<p>
しかし、前記した西域各地の壁画の事例にも、また後記する北魏の様々な事例にも如意状の棹頭を持つものが見られないのは残念だが、この成公綏の「琵琶賦」と傅玄の「琵琶賦」とを合わせて考えると、今の私が演奏している秦琴とほとんど同形のものが、すでに晋代もしくはその少し以前に現れていたようである。<br />
ただ四絃と三絃の違いはあるが、三絃のことは後で少し触れたい。
</p>
<p>
また、この時代の善弾琵琶者（この楽器を好んで弾く人とか、達人とかいうようなこと）としては、朱生（しゅせい）、阮咸（げんかん）、孫放（そんほう）、孔偉（こうい）、石季倫（せききりん）【この人は『世説新語』によれば洛陽の西北に&ldquo;金谷園&rdquo;なる別荘を作り、客があれば歌姫を侍らせる等して贅沢の限りを尽していたのだそうだ。そこでこの琵琶でも弾いていたのだろうか。】　等の人がいる。
</p>
<p>
ちなみに成公綏の「琵琶賦」に記された琵琶は次の様にも記されている。
</p>
<p>
臨樂則齊州之丹木　柱則梁山之象犀　批以玳瑁　格以瑤枝　若夫盤圓合靈太極形也　三材片合兩儀生也　分柱列位歳數成也　回窗華表日月星也　　【明・張溥の『漢魏六朝百三名家集』に収められている『成公子安集』より】
</p>
<p>
棹は斉州の丹木（紅木のことだろうか。『藝文類聚』では丹木となっているが、『初学記』『北堂書鈔』では丹桂となっている。丹桂ならばキンモクセイのことだろうが、&ldquo;臨樂則齊州之丹木&rdquo;のくだりは棹のことを指しているのかよく判らない。）を用い、柱（フレット）は梁山の象の牙や犀の角から作られ、美しい&ldquo;玉（ぎょく）&rdquo;で仕切られている。腹板にあけられた音穴は（？）日、月、星、を表し輝いている。（螺鈿のようなもので縁取られていたのであろうか。）ー回窓華表日月星也ー。そして玳瑁（タイマイ）(鼈甲）の撥を使っていたようである。【※『藝文類聚』では&quot;
<img class="none" src="http://akifukakusa.com/shinkin/image/text02.gif" alt="text02.gif" width="12" height="12" />
以玳瑁&quot;
<img class="none" src="http://akifukakusa.com/shinkin/image/text02.gif" alt="text02.gif" width="12" height="12" />
は批と同じで手で撃という意味。玳瑁を使って弾くということから撥（ばち）を使っていたことがわかる。ただ傅玄の『琵琶賦』には「素手紛其若飄兮・・・」等の一文があるのでこれをもって当時から指で弾いていたとする説もある。】<br />
また&ldquo;批以玳瑁&rdquo;を&ldquo;飾以玳瑁&rdquo;もしくは&ldquo;摠以玳瑁&rdquo;と解釈していることもあるので、&ldquo;飾以玳瑁　格以瑤枝&rdquo;は&ldquo;べっ甲で飾られ細い玉で縁取られている&rdquo;と云うことであろうか。これならば撥を用いていたことにはならない訳である。ただよく取り上げられる南京西善橋南朝墓の磚刻画に描かれている阮咸は明らかに細長い撥を持っている。
</p>
<p>
【それにしてもこんな美しい楽器を私もほしいものだ！】
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
そして5～6世紀の南北朝の時代になると北魏を中心とする鮮卑族たる北朝にもその事例が多く現れてくる。
</p>
<p>
雲崗（うんこう）の石窟寺、麦積山（ばくせきざん）石窟、響堂山（きょうどうざん）石窟、遼寧輯安（りょうねいしゅうあん）古墓、また龍門の石窟寺等の浮彫りや様々な石刻画に、そしてまた、北魏の時代の仏像の光背に施された伎楽飛天にはこの楽器を持つものが多く見られる。【北魏時代の仏像展や写真等を見られる機会があれば、この楽器を持つ伎楽飛天を一つや二つ見い出すことができるかもしれない。それほど多くの事例があるのである。】
</p>
<p>
これらの事例を一つ一つ取り上げることはしないが、興味があれば簡単に見つけられるものです。
</p>
<p>
又、南朝においては、南斉（なんせい）の王融（おうゆう）や梁（りょう）の徐勉（じょべん）等が琵琶詩を詠じ、南斉の褚淵は善くこの楽器を操り、武帝が皇太子の時、金糸で飾られ、銀の柱の琵琶を賜ったこと等が記されている。これらの琵琶を漢式型のものとするのは早計かも知れないが、２００６年に泉州の安南市豊州鎭皇冠山で発掘された墓から、太元三年(378年）と刻まれた煉瓦が出土しそこに三絃や四絃の漢式琵琶の文様が彫刻されていたので、四世紀には已に漢式琵琶が南方まで伝わっていたことが確認されている。【隋・唐時代参照】
</p>
<p>
また『通典』(巻百四十四絲五）には次のようにも記されている。
</p>
<p>
《梁史》稱侯景之害簡文也，使太樂令彭雋赍曲項琵琶就帝飲，則南朝似無曲項者
</p>
<p>
【梁史には 侯景が簡文帝を殺す時、太樂令の彭雋を使わせ曲項琵琶を持たせて帝の宴会に就かせた、とある。則ち南朝には曲項琵琶は無かったようである。】
</p>
<p>
ようするに曲項琵琶がなかったのでわざわざ持たせて行かしたと云うことであろうか。やはり南朝では曲頸四絃琵琶より漢式型琵琶の流行の方が早かったようである。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p style="text-align: center" class="nextpre">
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</a>
</p> -->
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   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【秦琴の歴史】漢代の琵琶の記述について</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://akifukakusa.com/shinkin/2007/10/post_7.html" />
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   <published>2007-10-29T03:58:42Z</published>
   <updated>2009-03-20T13:07:53Z</updated>
   
   <summary>ページをリニューアルいたしました。こちらからご覧ください。 漢代の琵琶の記述につ...</summary>
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         <category term="1020漢代の琵琶の記述について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://akifukakusa.com/shinkin/">
      <![CDATA[<p>ページをリニューアルいたしました。<a href="http://akifukakusa.com/shinkin_new/history.html">こちらからご覧ください。</a></p>
<!--
<h3>漢代の琵琶の記述について</h3>

<p class="img_R">
漢代の琵琶の記述について<a href="http://akifukakusa.com/shinkin/pdf/history02.pdf" target="_blank">
<img class="none" src="http://akifukakusa.com/shinkin/image/print.gif" alt="印刷用ＰＤＦファイル" title="印刷用ＰＤＦファイル" width="55" height="20" />
</a>
</p>
<p class="clear">

<p>
中国固有の楽器と思われている琴、瑟等もこのようなものだから、当然、直頸リュート系の弦楽器はこの時代にはまだ現れていない。春秋戦国を過ぎ、秦・漢の時代に入ると、はじめてこのリュート系（棹系）の弦楽器の存在を記した文献が現れてくる。
</p>
<p>
後漢・劉煕（りゅうき）の『釈名（しゃくみょう）』巻四釋楽器弟二十二、には次のように記され、
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic"><em>批把</em>本出於胡中馬上所鼓也推手前曰批引手却曰把象其鼓時因以為名也</span><br />
</p>
<p>
また、応劭（おうしょう）の『風俗通義』聲音巻弟六・琵琶の条には
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">謹按此近世樂家所作不知誰也以手<em>批把</em>因以為名長三尺五寸法天地人与五行四絃象四時</span>
</p>
<p>
とあり、趙岐（ちょうき）（？ー201)の『三輔決録（さんぽけつろく）』(五朝小説、訓誡家弟八冊巻九所収）&ldquo;自随&rdquo;の条にも次のように記されている。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">楚遊上表乞宿衛拜駙馬都尉楚無学好遨遊音楽及畜歌者<em>琵琶</em>筝笛毎行将以自随</span>
</p>
<p>
そしてまた、六朝宋の劉敬叔（りゅうけいしゅく）(？ー470)の『異苑（いえん）』にも漢代の琵琶について次のような一節がある。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">永熹中李謙素善<em>琵琶</em>元嘉初往廣州・・・・・・・遺生己久無宜于突始悟是鬼</span>
</p>
<p>
※『北堂書鈔（ほくどうしょしょう）』―隋・虞世南（ぐせいなん）(558&minus;638)、や『淵鑑類函（えんかんるいかん）』（清・聖祖奉勅撰）に引用された『異苑（いえん）』の中のこの一節では永熹（えいき）中、としているが、『津逮秘書（しんたいひしょ）』や『学津討原（がくしんとうげん）』に収められている『異苑』ではこの永熹中を、晋永嘉（しんえいか）中、としている。（このようなことは中国の古い書物ではよくあることなのである。）<br />
晋の永嘉（えいか）は307年～313年である。また元嘉（げんか）初往廣州・・・・、とある元嘉は後漢の元嘉（151～152年）と南朝宋・元嘉（424～453年）の２通りの解釈があるのだが、もし晋の永嘉（307年～313年）であるならば、どちらの元嘉でも年代に矛盾が出てしまう。<br />
このようにとらえ「北堂書鈔」に引用された『異苑』のこの一節を原本により近いものと考え、永熹（えいき）を後漢・永嘉から熹平（きへい）【145～177年】まで、元嘉初を後漢の151年とし、この一節を漢の出来事として取り上げた。
</p>
<p>
このように漢代になるといくらかの書物に批把（琵琶）なる楽器の記述が現れてくる。この『釈名』、『風俗通義』、『三輔決録』に記された批把（琵琶）や、また『異苑』云うところの李謙が弾いていた琵琶はどのようなものなのだろうか。
</p>
<p>
応劭の『風俗通義』によれば、その大きさは三尺五寸とあり（漢代の一尺は前漢が22.5㎝、後漢が23.04㎝とすると、おおよそ79～81㎝位）、四時すなわち、春夏秋冬に象るがごとく四絃の楽器であったことがわかる。
</p>
<p>
この琵琶のことは晋の傅玄（ふげん）(217ー278）の「琵琶賦」の序にもう少詳しく記述されている。
</p>
<p>
傅玄の「琵琶賦」序は『宋書』巻19志第9楽１、　隋・虞世南(558&minus;638)の『北堂書鈔』、唐・徐堅(じょけん）(659ー729)の『初学記』巻16、唐・杜佑（とゆう）(733ー812)の『通典（つてん）』巻144、等にも収められているが、その中でも杜佑の『通典』に収められている「琵琶賦」序がこの楽器の形体を一番詳しく記述している。そこにはこのように記述されている。
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic">漢遺烏孫公主嫁昆彌念其行道思慕故使工人裁箏筑為馬上之楽今観其器中虚外実天地象也盤円柄直陰陽叙也柱十有二配律呂也四時也以方俗語之日琵琶取其易傳於外国・・・・・</span>
</p>
<p>
これを少し詳しく話せば次のようになる。
</p>
<p>
【西漢帝国の武帝時代、北方西域にトルコ系の異民族国家&rdquo;烏孫（うそん）&rdquo;という国があり、その懐柔策として武帝の娘、すなわち公主をその王&rdquo;昆莫（猟驕靡）&rdquo;に嫁がせるわけだが、実は本当の娘ではなく、江都王劉建（こうとおうりゅうけん）（武帝の兄の子）の娘、劉細君を身代わりに嫁がせた。恐らく馬でゆっくりと何日もかけての旅であったのだろう。その道すがら二度と帰ることができない故郷を思い、淋しかろうと、武帝が音楽に詳しい知音者達に命じ、箏（そう）や筑（ちく）等の弦楽器を参考にしながら、馬上で奏でることができる楽器を作らせた。その楽器の形は天と地を象るごとく空洞な胴体を持ち、その胴と棹は陰陽のごとく、円形の胴体に棹はまっすぐに付けられており、また、棹に付けられた&ldquo;柱&rdquo;（フレット）は十二の律呂に配され、四時（春夏秋冬）に則るがごとく四絃の楽器であった。地方の俗語をもって琵琶と謂われた。外国から伝わりやすい言葉だったのでそう呼ばれた。(?)】
</p>
<p align="center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/tutenn.jpg" alt="" width="165" height="268" />
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/tutenn2.jpg" alt="" width="165" height="273" />
</p>
<div align="center">
<span style="font-family: MS Gothic">明・李元陽、校『通典』巻百四十四&nbsp; （国会図書館所蔵より）</span><br />
</div>
<p>
楽器のおこりにしては伝説めいた話だが、その形体についてはかなり具体的に記されている。この記述 によれば、この楽器は円形の胴体を持ち、そこにはまっすぐな棹がつけられている。その棹には12個の 柱（じゅう）もしくは品、今で言うフレットだが、それが律呂（りつりょ）に配されている。古代中国では1オクターブを12に分け、それぞれ名称が付けられている。&nbsp;<br />
黄鐘（こうしょう）、大呂（たいりょ）、太蔟（たいそう）、夾鐘（きょうしょう）、姑洗（こせん）、仲呂 （ちゅうりょ）、蕤賓（ずいひん）、林鐘（りんしょう）、夷則（いそく）、南呂（なんりょ）、無射（ぶえ き）、応鐘（おうしょう）。
</p>
<p>
六律六呂というわけだが、それぞれ1律づつの音程のへだたりがある。律呂に配されているということはすなわち、約半音づつ【もちろん当時は三分損益（さんぶんそんえき）という方法で音程とっているので現在の平均律のような半音ではないが。】のへだたりでフレットが付けられているということであ ろうか（少し独断すぎるかもしれないが）。そして四条の糸が張られた四絃の楽器で、その大きさは前記 したように79～81㎝位というわけである。中国における直頸リュート系の弦楽器の原型がこの時つくられている。この琵琶を林謙三氏は「漢式型琵琶」とされているので以後そのように呼ぶことにする。
</p>
<p>
傅玄の「琵琶賦」序は、前記したように『宋書』『北堂書鈔』『初学記』『通典』をはじめ、後世のさまざまな書物に取り上げられ、曲頸琵琶とこの漢式型の琵琶とが混同して記されている書物も多い。
</p>
<p>
しかし、前記漢代の『釈名』や『風俗通義』に記され、また、『異苑』の李謙や『三輔決録』の楚が好んで弾いていたと記され、さらにまた晋・傅玄の「琵琶賦」にも言及されている漢式琵琶なるこの楽器は、当の漢代の画像石（がぞうせき）や画像磚（がぞうせん）、または漢代古墓の遺品等々においてもほとんどその事例が見当たらない。【遼寧省・遼陽の棒臺子屯の後漢代の古墓壁画に洋梨形の直頸琵琶、又同じく後漢代の四川・樂山虎頭湾崖墓にこれも洋梨形の直頸琵琶の画像石の事例があるのだが・・今のところこれくらいしか確認できてないが。】
</p>
<p>
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/sisengazouseki.jpg" alt="" width="180" height="158" />
&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; &nbsp; &nbsp;
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/kanbiwa.jpg" alt="" width="200" height="137" />
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 80%">後漢代の四川・樂山虎頭湾崖墓画像石&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;<span style="font-size: 90%">&nbsp;</span></span></span><span style="font-size: 90%">遼寧省・遼陽の棒臺子屯の後漢代の古墓壁画</span>
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 80%">巴蜀出版社『四川漢代画像石』より</span></span>&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;<span style="font-size: 90%">『中国音楽図鑑』</span><span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 80%"><span style="font-size: 90%"><span style="font-size: 90%"><span style="font-size: 120%"><span style="font-size: 90%">より</span></span></span></span></span></span>
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 80%"><br />
</span></span>
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 80%">&nbsp;&nbsp;</span></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: 130%; font-family: MS Gothic">追補</span>ーまず、『風俗通義』にしても『釈名』にしても、又傅玄の『琵琶賦』にしても1800年程前のこれらの書物の内容がある程度正確に伝わっていると言う前提の話であるが。
</p>
<p>
『風俗通義』の応劭は生没不明だが、後漢、靈帝の中平代（184ー188）頃に在世している。又『釈名』の劉煕も生没不明だがこの書は後漢末に成ったものとされているから、この二書は殆ど同時代のものと考えてよいだろう。しかし『風俗通儀』では批把は近世の楽家が作ったもので、誰だか判らないと云い、片や『釈名』では胡中から伝わったものであると言っている。手を前に出すのを&ldquo;批&rdquo;後ろに引くのを&ldquo;把&rdquo;、それに依って名が付けられていると言うのは同じだが何故この二書の記述は違うものになっているのだろう。これらの&ldquo;批把&rdquo;は同じ種類の楽器であろうか。
</p>
<p>
『風俗通義』に記されている、三尺五寸を天地人と五行に喩えたりするのは恐らく『太玄経』の影響を受けていると思われるので、&ldquo;近世樂家所作&rdquo;と言う様に此の批把は漢人の手に依る楽器であろう。ただこの&ldquo;批把&rdquo;を傅玄言うところの円体胴の琵琶と同じ種類の楽器であるとすれば、この琵琶が現れたとする烏孫公主の話は『漢書』西域伝烏孫条に依れば武帝の元封年間（BC110ー105)の出来事なので『風俗通義』の後漢末までは二、三百年の時を経ている。とすればこの&ldquo;批把&rdquo;はかなり洗練された完成度の高い楽器になっているはずだ。その完成度の高い楽器をこの程度の記述にすると言うのが腑に落ちない。何故、円体胴のことも十二の柱のことにも触れていないのだろう。それにもましてもし烏孫公主の琵琶の話が本当ならば傅玄よりも七、八十年程も前の『風俗通義』や『釈名』に取りあげられないはずはないと思われるし、又『漢書』巻九十六下&ldquo;西域伝烏孫国&rdquo;にもこの&ldquo;批把&rdquo;の話しが取り上げられていないことを見れば、やはり傅玄の話は付会であると考えた方が合理的であろうか。
</p>
<p>
このように考えれば後漢代の&ldquo;批把&rdquo;は円体胴形ではなく後漢代画像石の事例のように洋梨型の胴を持つ楽器で、後漢末当時には『風俗通義』云うように已に漢人の手に依って作られてはいたが『釈名』に記されている様に元々は胡中あたりから伝わったものだと認識されていたのかもしれない。
</p>
<p>
また郭茂倩『楽府詩集』の相和歌&ldquo;四弦曲&rdquo;に「李延年四弦」と記されているように、前漢代には「四絃」と言われる楽器が&ldquo;相和歌&rdquo;に用いられていたようであ
るが、この「四絃」が『風俗通義』言う所の四絃の&ldquo;批把&rdquo;であると確定は出来ない。しかし琴、瑟、箜篌、臥箜篌等の弦楽器で四絃のものは無いのでこの「四絃」は&ldquo;批把&rdquo;系の楽器である可能性が高いが、前漢代にはまだ&ldquo;批把&rdquo;と呼ばれず&ldquo;四弦&rdquo;と言われていたのかもしれない。
</p>
<p>
そして晋代に入る前に円体胴のものが現れ、その楽器をして、傅玄に前漢武帝時代に作られたと謂わせたのかもしれない。傅玄の生きた時代には多くの事例がある様に円体胴の琵琶が流行っていた。その琵琶はまさに傅玄の『琵琶賦・序』謂うところの形体の物であった。こう考えれば、もしかしたら漢代の&ldquo;批把&rdquo;と晋代の&ldquo;琵琶&rdquo;とは別物かもしれない。<br />
【また『釈名』の&ldquo;批把&rdquo;を梨型のものとし『風俗通義』の&ldquo;批把&rdquo;を円体型のものとする別物説もある
。少し腑に落ちない所もありますが、興味の有る方は『中国音楽学(Musicology In China)』1993年第4期
鄭祖襄「漢代琵琶起源的資料及其分析考証」を参照されたし。】
</p>
<p>
又少し穿った見方をすればこの様にも考えられる。つまり、傅玄の『琵琶賦』の記述が最初に現れるのが488年に成書した『宋書』（只これは宋の孝武帝の大明六年・462年に徐爰が作り上げ、沈約のものはこれを補ったもの。「中国学芸大事典」）であるが、そこには次の様に記されている。<br />
<br />
傅玄琵琶賦日漢遺烏孫公主嫁昆彌念其行道思慕故使工人裁箏筑為馬上之楽欲従方俗語故名日琵琶取其易傳於外國也<br />
<br />
この様に記され、ここには円体胴のことも真っすぐな柄のことも十二の柱のこともなにも記されていない。<br />
そして隋・虞世南の『北堂書鈔』(610年頃）になると初めて『琵琶賦・序』として&ldquo;盤圓柄直、四絃法四時&rdquo;の記述が付け加えられ、唐・徐堅等の『初学記』(725年奉勅撰）では&ldquo;中虚外實天地象也&rdquo;の記述が足されている。しかしここでもまだ十二の柱のことは記されてなく、傅玄の時代から500年以上の時を経た唐・杜佑の『通典』(766~801)になって初めて十二の柱の記述が加えられ、所謂傅玄の『琵琶賦・序』に成る訳である。<br />
この様に書物よって段々と記述が付け加えられていることを考えると、傅玄の『琵琶賦』には本当に最初から&rdquo;盤圓柄直&rdquo;とか&ldquo;十二柱&rdquo;の記述が記されていたのだろうか、と疑いたくもなる。<br />
『宋書』の『琵琶賦』では上記のように公主が烏孫に嫁いだ時に楽器が作られ地方の俗語で琵琶と呼ばれた、と云う様なことしか記されていない。このことを考えると若しかしたら今日漢式琵琶として漢代に現れたとされる円体胴・直頸・十二柱の琵琶(批把）のイメージは隋・唐の時代に作り上げられて仕舞ったものなのかもしれない。<br />
後世もし漢代の遺跡から円体胴の琵琶の事例が発見されたならば漢代の琵琶はもっと詳しく解明されることであろう。<br />
&nbsp;
</p>
<p>
ただ、洋梨型のものは後記する嘉峪関の壁画に三弦のものがあるが、後漢代の画像石の事例の一つ(棒臺子屯）は四絃のような気もするので『風俗通儀』や『釈名』の&ldquo;批把&rdquo;はいわゆるペルシャのサタールと同系統とも言い難いであろう。
</p>
<p>
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/kayokukan.jpg" alt="" width="300" height="153" />
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 80%">嘉峪関魏晋三号墓に描かれた三弦の洋梨型胴の琵琶</span></span>
</p>
<p>
<span style="font-family: MS Gothic"><span style="font-size: 80%">甘粛人民美術出版『 嘉峪関酒泉魏晋十六国墓壁画』より</span></span>
</p>
<p style="text-align: center" class="nextpre">
<a href="/shinkin/history/first/">
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</a><a href="/shinkin/history/rikucyou/">
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</p>  -->
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   <title>【秦琴の歴史】　--本文--</title>
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   <published>2007-10-29T00:46:59Z</published>
   <updated>2009-03-20T13:02:43Z</updated>
   
   <summary>ページをリニューアルいたしました。こちらからご覧ください。 はじめに はじめに ...</summary>
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         <category term="1010はじめに" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://akifukakusa.com/shinkin/">
      <![CDATA[<p>ページをリニューアルいたしました。<a href="http://akifukakusa.com/shinkin_new/history.html">こちらからご覧ください。</a></p>

<!--
<h3>はじめに</h3>

<p class="img_R">
はじめに<a href="http://akifukakusa.com/shinkin/pdf/history01.pdf" target="_blank">
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</a>
</p>
<p class="clear">

<p>
秦琴の源流を訪ねるには、取りも直さず、中国音楽に直頸型リュート系（棹系の）弦楽器が、いつ頃、いかにして登場し、そして発展してきたかを探らなければならない。
</p>
<p>
中国音楽史上において、伝説以外に具体的な音楽の痕跡が最初に見られるのは、7000年～8000年程前に揚子江流域に発達した、河姆渡（かぼと）文明の遺跡で発見された骨哨（こつしょう）であろう。これは狩猟の時に使われた道具であろうと思われるが、音自体を楽しんだこともあっただろうし、明らかに楽器の形体を持ったものもある。
</p>
<p>
そして時代は少し下って、黄河流域の仰詔（ぎょうしょう）、馬家窟（まかよう）等の遺跡からは壎（けん）や陶鐃（とうにょう）等が発見されているが、夏（か）の時代を過ぎ殷（BC1700～1050年）から周の時代に入ると青銅器文化が盛んになり、その遺跡から数多くの青銅器の鐃（にょう）や鐘（しょう）、鎛（はく）等が発見されている。
</p>
<p>
この時代の音楽は「金石の声」とも言われ、これら青銅器の楽器のほかに磐（けい）といわれる石の楽器や竹、葦等で作った簫（しょう）―排簫（はいしょう）―等が中心であった。<br />
【この他に塤（けん）や篪（ち）等の笛類、笙、そして数々の太鼓類も使われていたし、この時代の音楽はもちろんこんな一言で済むようなものではないが。】
</p>
<p>
秦・漢以来、郊廟雅楽（こうびょうががく）であたり前のように用いられ、中国固有の楽器として古代では瑶琴や秦筝ともいわれ、神農（じんのう）や伏義（ふくぎ）が作ったとされる、琴（きん）や瑟（しつ）等の弦楽器は郭沫若（かくまつじゃく）氏に言わせれば、春秋初年頃に現れた外来の新進楽器で【近年では曽侯乙墓（そうこういつぼ）等が発見されているので少し時代は遡るかもしれないが】、河南の安陽から出土した無数の殷代の亀甲獣骨文字にも、殷・周二代の合わせて五千種以上の青銅器の銘文にも全然その痕跡がないそうである。
</p>
<p style="text-align: center" class="nextpre">
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   <title>私の音響装置</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://akifukakusa.com/shinkin/2007/10/post_5.html" />
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   <published>2007-10-09T12:08:23Z</published>
   <updated>2017-04-12T15:26:38Z</updated>
   
   <summary>音響装置 番号をクリックすると説明が表示されます。（ごみ箱をクリックすると消えま...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://akifukakusa.com/shinkin/">
      <![CDATA[<h3><span style="font-size: 140%">音響装置</span></h3>
<p><span style="font-size: 120%">
番号をクリックすると説明が表示されます。（ごみ箱をクリックすると消えます。）
</p></span>
<div style="text-align: center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/souchi02.jpg" alt="音響装置" width="401" height="380" border="0" usemap="#Map"/>
<map name="Map" id="Map">
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</map>
</div>
<div style="text-align: center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/kizai-2.jpg" alt="" width="480" height="454" />
</div>
<p>
<span style="font-size: 120%">この装置に落ち着いてから25年以上になる。音響装置の選択、組み立ては秦琴を弾き始めた時から試行錯誤してきた。この音響装置は私の秦琴演奏の基本的な音場を作る重要なものだ。（チューブテックのマイクアンプは修理中です。代わりにATL社のもの）</span>
</p>
<div style="text-align: center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/kizai-case・ln.jpg" alt="" width="480" height="372" />
</div>
<p>
<span style="font-size: 120%">こんなふうにケースに入れて運びます。最近は機材を別々のケースに入れすこしコンパクトになりました。</span>
</p>
<br />
<h3><span style="font-size: 140%">わたしの使用しているマイク</span></h3>
<p>
<span style="font-size: 120%">ケースの中の上のマイク：ドイツのショップスというメーカーのマイク。
下のマイク：これもドイツのノイマン社のマイク。。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: 120%">いつもはショップスのマイクを用いている。ショップスもノイマンも共に世界の名器で多くのスタジオ、ホールのレコーディングに用いられている。</span>
</p>
<div style="text-align: center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/maik01.jpg" alt="マイク" title="マイク" width="480" height="418" />
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/h-s-mic-4.jpg" alt="マイク" title="マイク" width="480" height="363" />

<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/h-s-mic-3.jpg" alt="マイク" title="マイク" width="480" height="638" />
</div>
<h3><span style="font-size: 140%">お寺の練習場</span></h3>
<div style="text-align: center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/atorie01.jpg" alt="お寺こもり" title="お寺こもり" width="480" height="418" />
</div>
<p>
<span style="font-size: 120%">大月の長応寺でこんな風にしてリハーサル、作曲等をしている。夏は回廊で冬は本堂の右側の部屋で。最近は寺ごもりも少し減ってきた。四隅のスピーカーからの音に包まれて気持ちよく練習しています。</span>
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>私の秦琴</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://akifukakusa.com/shinkin/2007/10/post_4.html" />
   <id>tag:akifukakusa.com,2007:/shinkin//2.10</id>
   
   <published>2007-10-09T12:04:54Z</published>
   <updated>2010-10-05T13:29:34Z</updated>
   
   <summary>秦琴三種 私が今弾いている秦琴。演奏に用いているのはこの一面しかない。まだベーシ...</summary>
   <author>
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   </author>
         <category term="0050私の秦琴" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://akifukakusa.com/shinkin/">
      <![CDATA[<h3>秦琴三種</h3>
<p align="center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/shinkin01-l.jpg" alt="秦琴" width="200" height="548" />
</p>
<p>
私が今弾いている秦琴。演奏に用いているのはこの一面しかない。まだベーシストだった30年程前に古民具市で突然出会い、私とともに歩んできた。
</p>

<p align="center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/shinkin03.jpg" alt="" width="120" height="313" />
&nbsp; &nbsp; &nbsp;
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/1713746351_shinkin02.jpg" alt="" width="107" height="304" />
</p>
<p align="center">
北京でつくり日本で手直しした秦琴　　　上海で作り日本で手直しした秦琴
</p>
<p style="text-align: left" align="center">

</p>
<h3>秦琴各種</h3>

<p style="text-align: center" align="center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/blog/sinn-1-1.jpg" alt="" width="400" height="534" />
&nbsp;
</p>
<h3>ストラップと足鈴</h3>
<div align="center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/strap.jpg" alt="ストラップと足鈴" title="ストラップと足鈴" width="300" height="225" />
</div>
<p>
上：いわゆるストラップ。古い絹布で作った私の肩掛。
</p>
<p>
下：肩掛とお対の足鈴。インドの鈴がついている。ライブ演奏の時はこれを右足につけて鳴す。
</p>

<h3>秦琴の袋</h3>
<p>
秦琴の袋色々。気分によってその都度使い分けている。今一番気にいっているのは「黒字に花の文様」が入った袋。
</p>
<p align="center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/fukuro01.jpg" alt="" width="180" height="240" />
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/fukuro02.jpg" alt="" width="180" height="240" />
</p>
<p align="center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/fukuro03.jpg" alt="" width="180" height="240" />
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/fukuro04.jpg" alt="" width="180" height="240" />
</p>

<h3>秦琴ケース</h3>
<p>
秦琴を桐箱に入れたところ。普段、家に置いてある時はこの桐箱の中に入れておくが、いつも出してあるので、あまり使わなくなった。この桐箱もハードケースも秦琴の袋も結局は特注になってしまう。まあ、秦琴そのものもほとんど特注の様なものではあるが。
</p>
<div align="center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/case01.jpg" alt="私の秦琴" title="私の秦琴" width="400" height="270" />
</div>
<p>
袋に入れた秦琴をハードケースに入れたところ。持ち歩く時はいつもこのケースに入れる。もうずい分くたびれてしまった。　　＊最近新しいケースを作りました。同じ形の物ですが。
</p>
<div align="center">
<img src="http://akifukakusa.com/shinkin/image/akisshinkin02.jpg" alt="私の秦琴" title="私の秦琴" width="400" height="281" />
</div>
]]>
      
   </content>
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   <title>秦琴の歴史　　　　　　　　深草アキ</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://akifukakusa.com/shinkin/2007/09/post_3.html" />
   <id>tag:akifukakusa.com,2007:/shinkin//2.9</id>
   
   <published>2007-09-10T08:14:50Z</published>
   <updated>2009-03-20T12:48:55Z</updated>
   
   <summary>ページをリニューアルいたしました。こちらからご覧ください。 「秦琴の歴史」全ペー...</summary>
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         <category term="1000秦琴の歴史（要旨）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://akifukakusa.com/shinkin/">
      <![CDATA[<p>ページをリニューアルいたしました。<a href="http://akifukakusa.com/shinkin_new/history.html">こちらからご覧ください。</a></p>
<!--
<p class="img_R">
「秦琴の歴史」全ページ<a href="http://akifukakusa.com/shinkin/pdf/shinkin_history.pdf" target="_blank">
<img class="none" src="http://akifukakusa.com/shinkin/image/print.gif" alt="印刷用ＰＤＦファイル" title="印刷用ＰＤＦファイル" width="55" height="20" />
</a>
</p>
<p class="clear">
＜要旨＞
</p>
<p>
秦琴は漢代から六朝（りくちょう）時代にかけて「琵琶（批把）」と呼ばれていた円形の胴体に柱（じゅう）ーもしくは品、すなわちフレットのことーの付いた直頸（※）の棹を持つ四絃の絃楽器にその源流を求めることができる。
</p>
<p>
※【直頸とは、棹と棹頭の部分とが、例えば現在の琵琶のように折れ曲がっているもの（曲頸）とはちがい、まっすぐに付いていること。】
</p>
<p>
この琵琶は1700年ほど前の晋代にはすでに近世秦琴と同形の如意（にょい）状の棹頭を持ち、桐製の円体胴に絹絃が張られ、三絃のものも現れてくる。
</p>
<p>
隋、唐代になるとそれらは総称して秦琵琶（しんびわ）と呼ばれ隋、唐当時のものは「秦漢子（しんかんし）」とも号されていた。そして唐代中期頃になると、その形体が一回り大きく変化し、阮咸（げんかん）と名付けられた。そしてまたこの頃、この四絃のものとは別に三絃の漢式型琵琶も存在しており「三絃」と呼ばれていた。
</p>
<p>
阮咸はその後、阮（げん）阮琴（げんきん）、月琴（げっきん）などとも呼ばれ、宋、元、明、清と伝承されていくが【胴の形が八角形になったり、絃の数が復絃の二絃になったりするが】、秦琴と同じ絃数を持つこの「三絃」は【現在の&ldquo;三絃&rdquo;とはまったく違うもの】宋代に伝承された痕跡が見当たらない。
</p>
<p>
しかし、前記の阮咸なる楽器は、千数百年来中国全土に広く伝わり、その土地土地の音楽や習慣等に影響され、様々な大きさ、形、絃の数の楽器に変化する。そして少なくとも清の康熙帝（こうきてい）（1662～1722年）の頃には現在の秦琴とほとんど同形の如意状の棹頭を持つ三絃の楽器が再び現れてくる。この楽器は現在の「秦琴」の最も卑近なルーツといってもよいだろう。（胴の形は現在の梅花形とは異なって円形のもの）
</p>
<p>
この「秦琴」は1950年代頃までは中国において現在の三絃や月琴と並ぶ最も大衆的な楽器のひとつで、その胴の形が梅の花弁形から「梅花秦琴（ばいかしんきん）」とも呼ばれたり、蛇の皮の胴を持つものもあった。しかし、音楽大学にその専科がなかったこともあり、専門の演奏家がいず、現在では広東省の潮州（ちょうしゅう）音楽や道教の寺院等、一部の民間音楽に用いられているだけである。
</p>
<p>
追補ー台湾では、粤曲、潮曲北管等の音楽に使われている。
</p>
<p>
詳細は「秦琴の歴史」の本文を参照されたい。数回に分けて書きたいと思う。
</p>
<p style="text-align: left" class="nextpre">
<a href="/shinkin/history/first/">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/siesar_next.gif" alt="次に進む" width="93" height="31" />
</a>
</p>  -->
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   <title>私の糸　　　深草アキ</title>
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   <published>2007-08-31T08:18:07Z</published>
   <updated>2009-08-26T01:11:51Z</updated>
   
   <summary> 今、私の用いている糸は、一の糸、二の糸は京都鳥羽屋製のもの。三の糸は琵琶湖木之...</summary>
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      <![CDATA[<div style="text-align: center">
<img src="http://akifukakusa.com/shinkin/image/ito.jpg" alt="私の糸" title="私の糸" width="250" height="260" />
</div>
<p>
今、私の用いている糸は、一の糸、二の糸は京都鳥羽屋製のもの。三の糸は琵琶湖木之本町の丸三橋本製のもので、秦琴用に少し縒りを多くしてもらっている。もちろん絹糸です。
</p>
<div align="center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/sannnoito.jpg" alt="" width="350" height="263" />
</div>
<p>
<span style="font-size: 130%">三の糸</span>、この糸だけは三味線の12-2を基にして20%程縒りを増やした特別なもの。私の秦琴は一の糸、二の糸、三の糸ともに四合縒り（よこより）のものを用いている。普通、三の糸は一合縒り（ひとこより）の細いつるりとした糸を用いるが、私の秦琴は三の糸に四合縒り（よこより）の二の糸を用いているので存在感のある音が出る。
</p>
<p align="center">
<img src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/kiribako.jpg" alt="桐箱" width="350" height="276" />
</p>
<div align="center">
<span style="font-size: 120%">糸をしまっておく桐箱</span>
</div>
]]>
      
   </content>
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<entry>
   <title>秦琴の構造</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://akifukakusa.com/shinkin/2007/08/post.html" />
   <id>tag:akifukakusa.com,2007:/shinkin//2.6</id>
   
   <published>2007-08-31T08:17:10Z</published>
   <updated>2012-06-29T15:35:38Z</updated>
   
   <summary> 虫眼鏡項目（棹頭、絃蔵、弦門、柱、覆手、隠月）をクリックすると拡大図が表示され...</summary>
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         <category term="0080秦琴の構造" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://akifukakusa.com/shinkin/">
      <![CDATA[<p>
<span style="color: #ff0000; font-size:12px;">虫眼鏡項目（棹頭、絃蔵、弦門、柱、覆手、隠月）をクリックすると拡大図が表示されます。<br />
画面消去・（右上下）をクリックすると拡大図は消えます。</span>
</p> 
<p>
<img usemap="#Map" src="/mt/mt-static/FileUpload/pics/shinkin/kouzou01.jpg" alt="秦琴の構造" width="400" height="636"/>
<map name="Map" id="Map"><area shape="rect" coords="197,59,242,84" href="javascript:dispBigImageK1()" /><area shape="rect" coords="263,152,310,179" href="javascript:dispBigImageK2()" /><area shape="rect" coords="262,208,313,234" href="javascript:dispBigImageK3()" /><area shape="rect" coords="164,286,228,311" href="javascript:dispBigImageK4()" /><area shape="rect" coords="157,553,200,578" href="javascript:dispBigImageK6()" /><area shape="rect" coords="33,556,79,582" href="javascript:dispBigImageK5()" /><area shape="rect" coords="315,34,390,55" href="javascript:delBigImage()" /><area shape="rect" coords="317,616,394,639" href="javascript:delBigImage()" /></map>
</p>

<dl class="file">
<dt>棹頭（さおがしら）</dt>
<dd>如意状のものが伝統であるが、秦琴教坊で用いる秦琴は、前5世紀頃の汲縣山彪鎮一号墓（きゅうけんざんひょうちん）から出土した青銅器の蓮の花形を写してある。近年では板状になっているので蓋板ともいう。</dd>
<dt>転手（てんじゅ）</dt>
<dd>いわゆる絃巻、ギター等で言えばペグとも。</dd>
<dt>絃蔵（げんぞう）</dt>
<dd>三味線で言えば「いとくら」。</dd>
<dt>弦門（げんもん）</dt>
<dd>絃蔵の左右の木のこと</dd>
<dt>兎眼（とがん）</dt>
<dd>転手を通す穴は琵琶では兎眼という。</dd>
<dt>承絃（しょうげん）</dt>
<dd>棹の端の絃を受ける所。中国では「承」も「乗」も発音が同じなので、乗絃（じょうげん）とも伝わる。また、山口ともいう。</dd>
<dt>柱（品）（じゅう・ぴーん）</dt>
<dd>いわゆるフレット</dd>
<dt>頸（棹）（けい・さお）</dt>
<dd>いわゆるギターでいえばネック</dd>
<dt>磯（いそ）</dt>
<dd>琵琶では胴の側面のことを磯という。</dd>
<dt>腹板（ふくばん）</dt>
<dd>胴の表面のこと。少なくとも1700年ほど前から桐が用いられている。</dd>
<dt>通絃孔（つうげんこう）</dt>
<dd>糸を通す穴を通絃孔ともいう。</dd>
<dt>覆手（ふくじゅ）、半月、縛手とも</dt>
<dd>絃をとめる所でギターで言えばブリッジ、また春秋ともいう。</dd>
<dt>隠月（いんげつ）</dt><dd>覆手の下に小さな穴があいている。琵琶で言えば隠月というが、秦琴では「勿忘星（わするなぼし）」とでもいおうか。</dd>
</dl>
]]>
      
   </content>
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